鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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的構成の契機、動因としてであり、絵画が物語性の方にもたれかかるということはなかった。つまり画家が表現しようとするものは、ある瞬間における色と形による純視覚的な緊張関係であり、物語はそうした的確なイメージを画家の脳裏に結実させる媒体としてのみ必要とされる。この秋山光和氏による文章は、青邨芸術を語る上でしばしば引用される一節である(注11)。濱中氏は秋山氏の指摘を引用した上で「作品自体が、その他の介在物を要さず、画家の持つイメージ、精神を鑑賞者に伝える力をもっているかどうかが問題となるべきである」(注12)と、絵巻あるいは近代絵画の自立性という重要な問題を提起している。そして青邨の絵巻制作については「青邨の旺盛な絵巻制作の意欲というのは、まさに絵巻のもつ自立性の追求だったのである」と位置付ける。補足するならば、青邨は「絵巻物は、日本の絵の形として重要なものでありながら、近年、ほとんどその制作は見られなくなった。わたくしも昭和二年に「西遊記」を描いたのを最後として、その後は会場の制限などもあって、なかなか制作の機会を得なかった」(注13)と、日本美術における巻子というフォーマットの重要性について画家自ら言及している。また梶田半古塾で学んだ青邨は早くから絵巻に強い関心を抱いていた。つまり青邨にとって絵巻制作は日本画家としての宿命であると同時に、自身の嗜好とも合致するものであった。そして展覧会という制度への適応─絵巻の近代化(絵画の自立性)─は画家にとって重要課題の一つであったといえよう。そこで青邨の物語絵巻における物語の叙述の用法をみれば、大正11年(1922)から大正12年(1923)の渡欧は一つの分岐点として捉えることが可能である。渡欧前の作例では「御輿振」(第6回文展出品作、東京国立博物館)、「つれづれ草鼎の巻」(東京大正博覧会出品作、所在不明)、「竹取物語」(再興第1回院展出品作)、「維盛高野之巻」(再興第5回院展出品作、東京国立博物館)が知られる。例えば『平家物語』に取材した「御輿振」〔図5〕では、第3段と第4段の画中を埋め尽くす群像描写に画家の関心が置かれ、またその活気溢れる群像表現が作品の基調を成している。また平維盛の悲運な後半生を描いた「維盛高野之巻」〔図6〕では、横長画面に豊かな色彩で描かれた風景が広がる。青邨は本作を制作するにあたり、実際に高野山から熊野を訪れ、物語の舞台を自ら歩いてその風景をスケッチに留めている。すなわち本作の風景描写は真景ともいえる反面、実質は物語を追体験した画家の心象風景である。その風景に維盛の悲壮な運命、心情を仮託することで、鑑賞者に対して維盛への共感を誘い、そして維盛が置かれた状況と維盛の入水という結末を暗示的に表すことに成功してい― 351 ―― 351 ―

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