鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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注⑴横山大観『大観画談』大日本雄弁会講談社、1951年⑵濱中真治「展覧会と絵巻」『前田青邨─その人と芸術─』山種美術館、1994年、162~167頁⑶現在は巻子装であるが、発表時は「画巻風な連作」(松原叔『三彩』317号、1974年)とあるこたともいえる。おわりに以上、「山幸海幸」を紹介し、青邨の絵巻制作について断片的な考察を試みた。絵巻の近代化については今後さらなる検討が必要であり、特に近代絵巻の先駆的な仕事を成した下村観山は改めて検討しなければならない。青邨は大観から「観山系」と認識されていたように(注16)、青邨の初期絵巻作品には、観山の絵巻作品からの影響が強くうかがえる。また本稿で論じた青邨絵巻にみる絵画の自立性を誘因したのは、おそらく渡欧体験であろう。このことについては改めて論じてみたいと思う。そして何よりも「山幸海幸」には様々な議論が用意されている。例えば海幸山幸譚を描いた青邨作品の包括的な議論(場面選択の意味やテキストとイメージの問題を中心として)、あるいは「山幸海幸」にみる考古学的関心と白描画の問題、近代日本画における海幸山幸神話の受容とその造形化の問題など、今後の課題として検討したい。とから、巻子装ではなかったと考えられる。⑷当時の画壇では日本画家、洋画家問わず、多くの海幸山幸譚を絵画化した作例が残る。日本画家では、早い例として河鍋暁斎が明治11年(1878)に、今村紫紅は明治41年(1908)に二曲一双の作品を発表している。また松本楓湖、飛田周山、名取春仙ら多くの日本画家は大正年間にそれぞれ特色ある海幸山幸譚に取材した作品を発表している。また近世以前の作例は、福井・明通寺に伝わる17世紀の模写「彦火々出見尊絵詞」(原本存否不明、以下「絵詞」と略称す)が広く知られるが、青邨の作例に直接的な影響関係は認められない。また洋画における海幸山幸主題について、山梨絵美子氏の研究「明治大正期の洋画における「海の幸・山の幸」主題の変遷」(『國華』第1187号、1994年10月)を参照した。⑸画像は堀喜二編『靑邨画集』(高島屋呉服店美術部、1927年12月5日)を参照した。また高島屋135年史編集委員会編『高島屋135年史』(1968年、高島屋)には「前田青邨個展 長巻・海幸山幸絵巻物出品」と表記されている。⑹一方、わたつみの住人、例えば女性像は、異国表象として隋・唐の俑を想起させる装束や髪型で描くなど差別化を図っている。⑺靫彦の時代考証については、長嶋圭哉「《肇国創業絵巻》の研究」『筑波大学芸術学研究誌 藝叢』第17号(筑波大学芸術学系芸術学研究室、2000年1月、41~98頁)、稲畑ルミ子「安田靫彦と記紀関係の歴史画」(『奈良県立美術館紀要』第29号(奈良県立美術館、2015年3月、1~23頁)、勝山滋「靫彦芸術の本質─《居醒泉》をてがかりに」(東京国立近代美術館、朝日新聞社編『安田靫彦展』朝日新聞社、2016年、174~181頁)を参照した。また大正期から昭和初期― 353 ―― 353 ―

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