した書画帖「縮地玅詮帖」は、59点の画・詩歌を収め、その蒐集方法は永錫自身が依頼したほか、木村蒹葭堂や彼が所属した漢詩結社の混沌社、大坂商人の学問所懐徳堂といった大坂の知識人ネットワークを利用したという(注14)。混沌社の盟主であり、この画帖の題字を揮毫したのは、浚明の墓誌銘を撰文した片山北海である。3.片山北海を中心とした交友北海も越後の生まれで、元文5年(1740)18歳で上京して儒者宇野明霞(1698-1745)に学び、師が亡くなったあとは、明霞の門弟であった商人に招かれて大坂に移ったという。明霞もまた、浚明と交流があった。「送法橋嵐君還越後」として寛保3年(1743)10月の年記がある七言絶句の記録が残っている(注15)。そして、この2人と交流があるならば、相国寺の僧大典顕常(1719-1801)とも知り合いである可能性が高い。大典は、明霞に師事してその死後『明霞先生遺稿集』を刊行しており、また多くの漢詩文集を著した詩僧としても有名で、たびたび大坂を訪れて混沌社に参加している。大典の『小雲棲稿』は、宝暦9年(1759)から安永2年(1773)までの漢詩文集で、安永4年の序文は片山北海による。その中に、「浚明」へ贈った詩が含まれている。大坂を訪れたものの体調を崩した大典は、蒹葭堂の家宅で静養することになった。「不能周咨社中諸子一日浚明公翼子琹前後来問乃作詩相贈」とあり、混沌社のメンバーを訪ねることができないでいたが、浚明・公翼・子琴が前後して訪ねて来たので詩を作って贈ったという。はじめに子琴(1739-84、葛子琴、大坂の漢詩人・篆刻家)、公翼(1737-87、岡魯庵、大坂の医師)、その次に浚明への詩が載る(注16)。ただし出身地や絵師を思わせる記述はない。管見の限り、近世大坂の人名録である『難波丸綱目』や『浪華郷友録』に「浚明」という名は見出せない。なにより、『蒹葭堂日記』天明5年3月5日条には「越後新潟俊明」の知人が訪ねてきたとあり、蒹葭堂が「俊明」と記したのは五十嵐浚明であった。北海主催の混沌社周辺にいて大典が「浚明」と呼ぶ相手は、旧知の間柄と思われる五十嵐浚明が妥当であろう。『小雲棲稿』は詩の形式別に編集されているが、それぞれは年代順に並んでいるようだ。浚明の登場前を遡ると、「乙酉元日」つまり明和2年(1765)元旦の記載があり、そのあとに「子琴自浪華来訪留宿」とあって葛子琴が京都の大典を訪ねてきたという。前述の大典来坂時に子琴へ贈られた詩には、割注に「去月子琴入京訪余留宿」とある。浚明への詩のあとには蒹葭堂への詩が続いており、その割注には「時世肅改― 27 ―― 27 ―
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