ン主義の先駆者」であり、「《ロランの死》はロマン主義的な畏怖の精神を感じさせる」とこの風景画を次世代の趣味を先どるものとして述べている(注8)。ピュピールもまた同様に、この時代に流行した「トルバドゥール絵画」との関連に触れながら、本作が「ロマン主義風景画を体現している」と結論付ける(注9)。さらにポマレッドは、本作を「サルヴァトール風の暗く、苦悩の風景画」であるとし、ミシャロンを代表とするこの時代の風景画家により、「歴史風景画というジャンルは、それ自身を新古典主義的考えから解放し、自然を直接的に、より写実的に注視することを通して必要とされる再建を見つけることに成功した」と本作における写実性を強調している(注10)。これらの先行研究で述べられているのは、本作がその主題においても、また様式においてもそれ以前の歴史風景画と異なっているということである。ではミシャロンがこのような絵画を描いた背景にはどのような状況があったのか、またミシャロンの意図とは何であったのであろうか。注文経緯と制作経緯本作は、ルイ18世がフォンテーヌブロー城のディアーヌの回廊を飾るために注文した作品群のひとつである。それぞれの作品は、1817年から1822年にかけて順次注文され、最終的に25点の作品がこの回廊を飾った。残念ながら、第二帝政時代の1859年にこの回廊は図書室へと模様替えをし〔図2〕、現代ではここを飾っていた作品はルーヴル美術館や地方美術館など各地に散らばっている。まず初めに、本作の注文経緯と制作経緯を確認しておこう(注11)。パリの国立公文書館の資料に従えば、その注文経緯は以下の通りである。王政復古期の体制がどうにか落ち着きを見せ始めた1817年からこの回廊の装飾の計画が開始された。この年にディアーヌの回廊の大きさの詳細な報告がなされ、各画家に注文が出される。ルザージュとポマレッドの研究によると、大枠の主題として「歴史風景画ジャンルとフランス王政の偉人たちの肖像(le genre du paysage historique et la représentation des grandesfigures de la monarchie française)」と決められていたようである(注12)。ミシャロンの名がこの装飾プログラムに現れるのは、その翌年のことである。1818年8月3日、王立美術館館長であったオーギュスト・ド・フォルバンは、宮内庁長官であるコント・ド・プラデルにカルル・ヴェルネとオーラス・ヴェルネの2人が辞退した代打としてそのうちの1点の作品をミシャロンに注文する旨を書き送っている(注13)。そして1819年10月20日にはミシャロンが作品を完成させたとの報告がなされている(注― 360 ―― 360 ―
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