鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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14)。上記の公文書によれば、1818年8月の半ばにはミシャロンの下に注文が届き、1819年に作品は完成させられたことになる。この時期は、彼がアカデミーの給費生としてローマに滞在していた時期にあたる。この風景画家は、ローマに留まることなく、ネミ湖やナルニ、テルニなどローマ周辺の各地を旅し、戸外習作を残している(注15)。1818年9月19日には、「王のために制作しなければならない作品のエスキスを作るためにローマに戻るつもりです(注16)」とティヴォリからパトロンであるレスピーヌ家に手紙を書き送っている。ここで言及されているのが、おそらくフォンテーヌブロー城のための注文であったと考えられる。ミシャロンは、王政復古政府のプロパガンダ絵画としてふさわしく、またディアーヌの回廊装飾に適した、ブルボン朝の始めの王アンリ4世を主題に選んだようである。この手紙の後、ローマで「アンリ4世とミショー隊長」という主題でエスキスを制作している〔図3〕。しかし、ルイ=エティエンヌ・ワトレがすでに同主題で描いていたため、最終的に《ロランの死》が描かれることになる。この注文経緯からは、各作品の主題は明確に指定されたわけではなく、それぞれの画家に任されていたことが予想される。ルーヴル美術館に所蔵されている画家の手紙によると、《ロランの死》は、1819年5月にはすでに完成し、ローマで展示された。ミシャロンは、ローマでの展示の成果を以下のように書き送っている。ここでの私たちの展示会は終わりました。ローマ人の場所ではいくらか成功しました。そこから推測すれば、パリでも私にとっていくらかいいのではと思いますが、フランス人の場所では好みはまるで異なるので、作品を送り、恐れているところです。より強く感じるのは、ヴァランシエンヌ氏を失い、本年その助言を不幸にも受けられないことです。彼は確実に私のいくつかの間違いを指摘してくれていただろうにと思います(注17)。本作は、ディアーヌの回廊に飾られる前に、1819年のパリのサロンに出品されることになる。この手紙からは、ミシャロンは公的注文として満足のいくものを描こうとしていただけでなく、パリの公衆にも受け入られるように強く意識していた様子が垣間見える。また本作が歴史風景画の巨匠であるヴァランシエンヌの助言なしで仕上げられたことは、この中世の物語を主題とした歴史風景画にとって重要なことであるように思える。― 361 ―― 361 ―

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