のであった。9月14日にド・フォルバンは、「そのサイズから、回廊に配置することができない(注20)」との口実を述べ、ボワスリエに新たに注文を出す旨を報告している。確かにヴァランシエンヌが描いた作品は、100×160cmと他の画家への注文作品と比べ小型のものであったが、大型で展示不可能というわけではないため、本当の理由は別のところにあったのではないかと思われる。一方でミシャロンは、彼の師であるヴァランシエンヌとは異なり、この装飾プログラムにふさわしいよう、フランス建国の愛国心を表現するため、シャルルマーニュに仕えた中世の騎士を主題として選んだのだ。ミシャロンにとっての主題選択ではどのように愛国心を表現する中世の騎士道精神をミシャロンは描いたのであろうか。作品理解のために物語に関して簡単に触れておこう(注21)。『ロランの歌』は、11世紀から12世紀にかけて成立したフランス最古の武勲詩として知られている。武勲詩とは、戦場における功名手柄を挙げた騎士を称える歌のことを指す。『ロランの歌』は、778年にピレネー山脈内で行われたシャルルマーニュ率いるフランク族とバスク族の戦い、歴史上「ロンスヴォーの戦い」と呼ばれる史実を題材にしている。物語内では、バスク族はこの歌が作られた当時にスペインを支配していたイスラム教徒のサラセン人に置き換えられている。物語は、スペインの地をフランク王がほとんど統治しかかったところから始まる。追い詰められたサラセン王のマルシルは、シャルルマーニュと偽りの和解を結ぶ。マルシル王の忠誠に満足したシャルルマーニュがこの地を去る際にしんがりを務めたのがロランであった。彼はシャルルマーニュの甥であり、武勇に秀でた騎士として知られていた。しかしマルシル王は反逆者ガロンヌと手を組み、退却するフランク族の背後を突いた。ロランは必死の抵抗を示すが、力及ばず、戦死することになる。ロランが死の間際に吹いた角笛に気づいたシャルルマーニュ率いる本隊がやがて到着し、サラセン人の軍を壊滅させる。ミシャロンの絵画は、騎士の精神を貫き殉死したロランの姿を描いたものであった。ミシャロンは、見事に鬼気迫るこの悲劇の場面を描き出している。至る所に岩が突き出た野性味あふれるピレネー山脈の渓谷の中には、急流が流れている。木々は倒れ、割けた切り口がむき出しになり、この情景に厳しさを加えている。これらの自然は、ミシャロンがこの作品を描く直前に多くの戸外習作を残した、ティヴォリやテルニの情景〔図7〕が参考にされているのであろう。それぞれの登場人物は、物語の流れに沿うように図表的に配置されている。前景左手に名刀デュランダルを岩に打ち付け、― 363 ―― 363 ―
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