る条件を列挙した後、それを見事に表した人物としてミシャロンの名を挙げている。[風景画を描くには、]心地よい眺めを写し取るだけでは十分ではなく、[…]鑑賞者が画家が伝えたいと望んだ感覚を受け入れられるように、景観を選び取り、光の効果を整え、人物像とそれらがいる場所とそれらを取りまとめる主題を調和させなければならない。ミシャロン氏は特に、ロランの死という彼の絵画において、この最後の条件を満たすのに見事に成功している(注27)。ここではミシャロンがアカデミーの理想とする歴史風景画を体現する人物であると語られている。同時に、本作に描かれた「その土地の色彩は真実(注28)」であり、その「色彩がもっとも正確な真実らしさを持っている(注29)」とその「真実らしさ」が称賛されていることも注目に値する。この時期の風景画に対して、「真実らしさ」はしばしば要求されているものであり、それは一般の趣味と迎合するものであった(注30)。ミシャロンは、彼がイタリアで繰り返し描いた戸外習作を基にすることで、この「真実らしさ」を創り上げたのであろう。アカデミーにおいても、この若い風景画家に「常に自然の近くにいる」ことが推奨され、それにより「優れた歴史画の巨匠たちに近づくことができる(注31)」と期待が寄せられていた。結論「ロランの歌」という主題は、ミシャロンの死後、ロマン主義者たちなどによって盛んに扱われるようになっていく。1826年にアルフレッド・ド・ヴィニーが「角笛」という詩の中で、1859年にはヴィクトル・ユーゴーが『諸世紀の伝説』の中で取り上げ、またオディロン・ルドンは乗馬姿のロランの姿を描き(《ロンスヴォーのロラン》1862年、ボルドー美術館)、1870年のボルドー芸術友の会のサロンに出品している。ミシャロンが先駆的にこの主題を扱ったかは明らかでないものの、画家が同時代の趣味と無関係でいたわけではない。画家は、復古王政を称賛するというプログラムの中で、当時流行していた中世趣味に沿った主題を選び、彼がイタリアで繰り返しその場で描いた自然の習作に基づき、「真実らしさ」をもって本作を描いたのである。ミシャロンは、《ロランの死》を描いた3年後、1822年の9月24日に26歳という若さで亡くなる。「歴史風景画」は次第に衰退していき、19世紀半ばにはシャルル・ボードレールからは厳しい言葉で死の宣告をされる(注32)。本作は、時代の趣味とアカデミーや政府の要請を見事にくみ取ったものであり、「歴史風景画」の変化のひとつ― 365 ―― 365 ―
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