鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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築堂宇」(世肅は蒹葭堂の字)とある。野間光辰氏によれば、明和2年に蒹葭堂の書堂が改築されたという(注17)。以上より、浚明が大坂にいたのは明和2年2月と考えられる。新潟市歴史博物館は画稿「孔明図」・「張飛図」を所蔵するが、これは明和2年に「松前矦」の求めに応じて描いたという画の下絵であり、上方で注文を受けたことになろう(注18)。番付『古今丹青競』でも浚明の活躍時期を明和としていた。このような交友関係を踏まえれば⑤「寿老人図」の制作も自然であり、わずか9cm四方の作画を新潟へ依頼したというよりは、このときも大坂を訪れていた可能性がある。おわりに上方とのつながりを示す作品をみると、法眼叙任頃の「天神湧現図」や「法眼浚明製」の落款をもつ室生寺所蔵屏風の画風は狩野派に近い。同じ「法眼浚明製」でも宝暦5年(1755)の賛をもつ三幅対は、薄墨の多用や彩色に浚明の画風が窺え、呉姓を名乗った60代の作品には特徴的な皴法も見られるようになる。公家との関わりのほか、片山北海をはじめとする上方の文化人と交流があり、明和2年(1765)には大坂に滞在していたと推定される。また、服部永錫の書画帖に画を寄せた安永2年(1773)、天皇へ画を献上した安永6年と、呉姓を返上したあとも上京した可能性が高い。以上から、新潟と上方はかなりの距離があるが、浚明自身がたびたび行き来していたと考えられる。上方に存在した作品の画風の幅は広く、時期的な傾向がみられなかったのもそのためだろう。「呉浚明」の知名度は、『新撰和漢書画一覧』をはじめとした没後の出版物によって増幅されていったものとみられるが、呉姓時の大坂滞在が推定されたことから、このときの画業には注意を要する。他方、北海を中心とした交友からも窺えるように、漢詩をたしなむ儒者としての浚明像が存在感を増してくる(注19)。生活態度にまで及ぶ儒教的思想の持ち主だったようだ。ここで報告する余裕はないが、北海の墓誌銘のほかいくつかの評伝でその記述があり、調査の中で「儒生」と自称する印も確認された。竹内式部および公家との関係にも、儒学が関わっているかもしれない。儒者としての一面が、上方への往来や浚明への評価に関係する可能性があるのではないだろうか。「儒者浚明」について精査した上で、その画業を改めて検討する必要がある。― 28 ―― 28 ―

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