注⑴ 櫻井市作『舟江遺芳録』1914、26-29頁に翻刻が載る。⑵ 安田篤生「『新撰和漢書画一覧』小考─江戸時代中期鑑画知識の一様相─」『京都美学美術史学』⑺ 2012年千葉市美術館・三重県立美術館開催の特別展「蕭白ショック!! 曽我蕭白と京の画家た⒂ 前掲注⑴、20頁。⒃ 「東来一葦堀江邉 春日無端與病連 已遇醫王醫苦悩 誰為論主論因縁〈浚明診治余病次討論玄理〉 塵談似在林中社 獅座相容室内禅 非道浮生違筋力 漫将薬餌送流年」(〈 〉は割注)。「医王」は病人を救うように仏法で人を救う仏・菩薩で、割注の「診治」も医学的な診療とは異なると思われる。⑶ 『古画備考』には『画師相撲見立(平安画工視相撲)』(29附録、1183頁)も所収されており、「呉浚明」は東の大関である。ただ、これは編者が文化14年(1817)上京の折に得たものといい、上位者のほとんどが円山派・四条派で当時存命している。なぜここに浚明の名が出るのか不明だが、「呉浚明」の知名度が窺われる。⑷ 青木美智男編『決定版 番付集成』柏書房、2009、34-35頁。⑸ 画像は確認できないが、明治43年から昭和33年までの売立目録394件にあたったところ、浚明作品は9点見つかり、うち5点が「呉浚明」で、「五十嵐浚明」は1点のみだった(ほかは姓なし)。なお、以上は東京・京都・大阪を中心に県外に限って確認したもの。ほとんどが東京(または東京を会場とした地方所蔵品の売立)で、京都・大阪の売立には浚明作品を見つけられていないことも気にかかる。県内の売立においては、14件を確認しただけでも11件中46点の浚明作品があり、呉姓での記載は皆無だった。⑹ 成澤勝嗣氏の教示によるものとして紹介された。大森慎子「五十嵐浚明の作品に関する一考察」⑻ 坂口仁一郎『北越詩話』上 目黒甚七、1918、109-118頁。⑼ 前掲注⑴、19-20頁。⑽ 久我通兄については竹内式部「糺問次第」星野恒『竹内式部事跡考』冨山房、1899、附録12頁。芝山重豊については『日本人名大事典』3巻、平凡社、1979、271頁(1937年刊『新撰大人名辞典』を所収)。⑾ 前掲注⑹。⑿ 桜井景雄『続南禅寺史』大本山南禅寺、1954、附録25頁。⒀ 前掲注⑹。⒁ 福士雄也「服部永錫蒐集の書画帖─≪縮地玅詮帖≫とその周辺─」『静岡県立美術館紀要』27⒄ 野間光辰「蒹葭堂会始末」『近世大阪芸文叢談』中尾松泉堂、1973、1-24頁。⒅ 企画展図録『新潟・文人去来─江戸時代の絵画をたのしむ─』新潟市歴史博物館、2007、14頁。⒆ 浚明の詩作には従来言及がある。前掲注⑻、横山秀樹「近世越後の絵画─五十嵐浚明の一考察─」(『新潟史学』17号、1984、130-144頁)、岩田多佳子「正福寺所蔵の五十嵐浚明および孫の作品について」(『平成25年度新潟市文化財調査概要』新潟市教育委員会、2014、27-37頁)、山田城介「五十嵐浚明とその武者絵」(『新潟県文人研究』19号、2016、133-183頁)。2号、2003、57-91頁。『新潟市美術館・新潟市新津美術館研究紀要』3号、2015、42-55頁。ち」に出品された。号、2012、20-51頁。― 29 ―― 29 ―
元のページ ../index.html#39