鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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㊱ キジル石窟壁画における仏伝図の画題比定─仏教説話図「善音城の物語」とその意義─序研 究 者:秋田公立美術大学 美術学部 准教授  井 上   豪新疆ウイグル自治区クチャ近郊のキジル石窟は、中央アジアを代表する仏教遺跡として広く知られている。この一帯はかつて西域と呼ばれ、東西文化の中継地点として栄えてきた。西域の古代仏教美術は早くから注目されてきたが、様々な制約から研究はあまり進んでおらず、いまだ主題の不明な壁画さえ多い。本研究はこうした状況に鑑み、現地調査を含めた壁画の詳細な図像分析を進め、まずは壁画の画題比定を行う試みの一環である。本稿で取り上げるのは特に重要度の高い主室側壁の仏伝図である。一般的に仏伝図とは釈尊の生涯を描いた説話図で、誕生から涅槃に至る様々な場面を順に描いていくものを指す。ところがキジル壁画にはこうした形式の仏伝図が極めて少ない。多くの窟では成道後の衆生教化譚のみを複数選び、それぞれを一場面に構成して順不同に配列しているのである。そのため窟内には似通った構図の仏説法図がいくつも並ぶ格好となり、個々のエピソードの内容は、仏を供養する人物の姿や傍らに描かれた因縁の描写などで暗示的に表される。このような壁画を仏伝図と呼ぶには些か違和感を禁じ得ないが、壁画が典拠とする伝統的な部派仏教のテキストにおいては、仏伝説話とは本来そのようなものであったらしい。岡本健資氏によれば(注1)、仏伝は大きく2種類、「仏典中に散在する、釈尊の事績に関する記録」、「独立した形で保存される釈尊の生涯を記す仏典」の2つに分けられるというが、後者には成道後の事績が少なく、多くは成道の前後で終わっているという。一方、前者の「釈尊の事績に関する記録」は古く阿含経および律蔵に多く見られるが、それらは説法の行われた状況や律の成立の経緯を語ったもので、断片的に様々なエピソードが順不同に取り上げられており、当然ながら釈尊成道後のエピソードが多い。こうした文献は成立が古く、「一代記的仏伝」は後にそれらを編集して制作されたというが、外薗幸一氏によれば(注2)その契機は大乗菩薩思想の興隆にあったという。キジル石窟が造営された古代亀茲国の仏教は小乗説一切有部が中心であり、また実際に比定された壁画の画題も一切有部の律典に依拠したと見られるものが多い。つまり、彼らの信仰においては仏伝とはまさに「仏典中に散在する釈尊の事績」なのであ― 381 ―― 381 ―

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