鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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注⑴ 岡本健資「仏伝文献とガンダーラ美術」(『龍谷政策学論集』 3(1) 龍谷大学 2013年 P. 43-53)⑵ 外薗幸一「仏伝経典の形成過程について」(『鹿兒島経大論集』24(3) 鹿児島経済大学経済学⑶ 調査は2016年9月12日から20日にかけて、主に谷東区を対象に行なった。⑷ 拙稿「キジル石窟仏伝図壁画「バドリカの継位」の図像的問題」(『てら ゆき めぐれ─大橋一⑸ 『根本説一切有部毘奈耶』巻45-46(『大正新修大蔵経』23 P.873b290-P.0882a12)⑹ 平岡聡『説話の考古学─インド仏教説話に秘められた思想』(大蔵出版 2002年)⑺ 『雜寶蔵経』巻10 (『大正新修大蔵経』4 P.0495a01-P.0496b12)⑻ 『大唐西域記』巻12媲摩城(『大正新修大蔵経』51 P.945b06-P.0945c01)⑼ Stein, Aurel, Sir, Ancient Khotan. Oxford, 1907 P. 460⑽ 尾白悠紀「『砂に埋もれた町』説話─その2つの系統と相互関係」(『龍谷大学大学院文学研究⑾ 羽渓了諦氏は、この説話を描いた壁画としてキジル第83窟の作例を挙げるが、壁画は説話の前⑿ 羽渓了諦⑾前掲論文と思うが、「砂漠地方の住民でなくては想像することさえもできない特異な自然現象である」との指摘は確かに説得力がある。ここで興味を引かれるのは、むしろ西域オアシスでこの話が強く定着し流布していた事実である。20世紀初頭のヘディンやスタインが伝えているように、沙漠に入って「砂に埋もれた都市」を見ている者は実際に数多くおり、またオアシスが砂嵐に襲われて被害が出るのは、中央アジアでは現在でも決して珍しいことではない。沙漠に生きるオアシス民にしてみれば、この説話は現実の災害を想起させ、かなり直接的な恐怖を感じさせたのではないか。であればこそ、イスラム聖職者が布教のために言及し、同様に古代の仏教僧も人々に広く語ったであろう。「釈尊の事績」としての現実味もそれだけ強かったと思われる。現実的な自然災害への恐怖は、救いを求める信仰心の強い動機となったに違いない。説話「善音城の物語」の定着と流布は、西域における風土の独自性を物語るものとして興味深い。再現されたキジル壁画が伝えるものは、はからずも西域独特の宗教感情を浮彫りにするものであったといえよう。部学会 1983年 P. 47-69)章博士古希記念美術史論集』中央公論美術出版、2013年 P. 33-44 「ギメ美術館蔵キジル石窟壁画断片の原位置とその図像的意義」(『秋田公立美術大学研究紀要』1 秋田公立美術大学 2014年 P. 1-10)」科紀要』32 龍谷大学大学院文学研究科紀要編集委員会 2010年 P. 46-63)半「月光夫人の生天」を描いたもので、後半の「城の埋没」は描かれていない。 羽渓了諦「西域に於いて創作された譬喩譚」(『羽渓博士佛教論説選集』(大東出版社 1971年 P. 667-679)― 387 ―― 387 ―

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