鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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㊲ カーピシー派仏教彫刻の研究研 究 者:名古屋大学大学院 文学研究科 博士後期課程  上 原 永 子はじめに本研究はアフガニスタンのカーピシー地域の片岩製仏教彫刻(以下カーピシー派)を扱うものである。当地域はクシャーン朝時代を中心に仏教美術が隆盛したガンダーラ文化圏(注1)の一地方であるが、従来の研究ではその彫刻作例の評価が定まっていないという問題がある(以下煩雑さを避けるためにカーピシー以外のガンダーラ文化圏諸地域をガンダーラと総称する)。すなわち、これらの彫刻作例の制作年代について先行研究では2~3世紀(クシャーン朝盛期)とする見解から6~7世紀とする見解まで幅広く、未だに定説をみない(注2)。この制作年代の問題は、そのままカーピシー派のガンダーラ文化圏における位置づけに直結し、制作年代を早くに想定する見解ではカーピシー派の諸特徴(強い正面性、線的な衣文、焔肩、仏伝主題の限定など)はクシャーン族の民族的嗜好や思想・信仰の反映と評価されるが、年代を遅くに想定する見解では同じ諸特徴が技術的な衰退・形式化とみなされることになる。のみならず、ガンダーラやさらに遠方のインドのアジャンター石窟、中国の雲崗石窟などとの影響関係(注3)もこの制作年代の問題に大きく左右されることとなる。そこで本研究ではまずカーピシー派に見られる供養者像と中インドのマトゥラーに見られる供養者像との同時代性を明らかにすることでカーピシー派の制作年代が2世紀後半に遡り得ることを論証する。そしてこれによってカーピシー派からガンダーラへ説法印が伝播した可能性を指摘して、カーピシー派がガンダーラから一方的に影響を受ける周縁部だったのではなく、独自の美術様式を持ち時としてガンダーラに影響を与えることすらあった、すなわちガンダーラと相互影響関係にあったという再評価を行う。1.供養者像にみるマトゥラーとの同時代性まず供養者像の問題を扱う。カーピシーを含むガンダーラ文化圏においては、仏・菩薩・特定の神々の単独礼拝像の周囲や台座あるいは仏伝図中に、その作例の寄進者と思われる人物の姿を表現した例が少なからず見受けられる。こうした人物像を本稿では供養者像と総称する。この供養者像は男女や成人、子どもといったヴァリエーションの他に外観に民族的な差異が認められる。これはインド系と遊牧民系に大別される。本稿では紙幅の都合で男性供養者に検討対象を絞る。インド系の外観(注4)は、ターバンを被り、左肩から身体の前面に条帛を垂らす― 390 ―― 390 ―

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