他は上半身裸形で下半身に下裙(パリダーナあるいはドーティー)をまとい、基本的に素足である〔図1〕。この他、耳飾りや瑤珞、臂釧・腕釧など装身具を着け、口髭を有する場合もある。菩薩もほぼ同様の装束だが素足ではなくサンダルを履く。対して遊牧民系の外観〔図2〕は、丸首・長袖・膝丈のチュニックで腰にベルトを締め、ズボンにブーツか脚絆、靴を履くのが基本である。短い首環や腕釧を着ける場合もあり、基本的に短髪、また口髭の他に頬髭や顎髭をたくわえる者も見られる。こうした遊牧民系の供養者像はカーピシー派に多く見られるだけでなく、同じくクシャーン朝支配下にあった中インドのマトゥラーでも盛んに表現されており、両者に共通点が見られることは既に先学によっても指摘されている(注5)。注意を要するのは遊牧民系の男性の装束に看過できないヴァリエーションが存在することで、チュニックの左胸に方形の装飾が付加される場合や三角形の肩掛けを付加する場合、正中線に沿って装飾帯を付加する場合、胸元で留めた長袖の外套を羽織る場合、チュニックではなく左衽で腰骨あたりまでの丈の上着を着用する場合の他、円錐形の丈高い帽子を被る場合などがある。またベルトの留め方にも結ぶもの、垂れ飾りを用いるものなどのヴァリエーシュンが認められる。外套を羽織る例は、クシャーン朝のカニシュカ1世の肖像〔図3〕が同様の服装であることから、身分の高いクシャーン族と考えられるが、この他のヴァリエーションは同じ遊牧民でも民族が異なることに由来すると考えられる。カーピシーやガンダーラにはクシャーン族以前にもサカ(インド・スキタイ)やインド・パルティアといったイラン系遊牧民の侵入を被っており、例えばサカ族は前1世紀にガンダーラからマトゥラーまで支配した北クシャトラパ王朝、これとは別個に前1世紀にアフガニスタン西南部から西インドへ侵入した西クシャトラパ王朝が知られており、仏教関連の碑文や彫刻などにも登場する(注6)。前述の円錐形の帽子は元来このサカ族のものと考えられる(注7)が、マトゥラーのクシャーン朝の神殿址マートから出土したクシャーン族と見られる王侯頭部に同様の帽子を被る例があり、装束のヴァリエーションから具体的な民族を決定するのは困難である(注8)。しかしこうしたヴァリエーションがある中で、カーピシーとマトゥラーの両地域を通じて全く同じ服装、同じ供物を持つ供養者像が看取されることは重要である。その民族的な帰属の詳細が判明しないとしても、少なくとも両者が同じ民族で、そしておそらくは同時代の供養者であることが示唆されるからである。問題の供養者像はカーピシーのショトラク出土、ギメ美術館所蔵の仏三尊像〔図4〕の向かって左端の供養者とマトゥラー出土、マトゥラー博物館所蔵の数例の供養― 391 ―― 391 ―
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