的に表現する必要が生じたのである。兜率天において弥勒菩薩が説法していることを明確に表現する為に、右手で左手を掴んで胸元に置く説法印が新たに創出されたと考えられる。それがガンダーラに伝播し、左手の指先を右手で包む説法印へと整えられるに至ったのではないだろうか。その傍証として、東京国立博物館所蔵の説法印仏坐像〔図14〕とロイヤル・オンタリオ博物館の弥勒菩薩椅坐像〔図15〕を挙げる。前者の仏坐像は説法印を結んでいながら通肩に衣をまとう点が特異(注24)だが、その説法印自体も右手親指と人差し指の間から左手の指先が突き出ている点、カーピシー派の説法印と共通する。前者・後者ともに左手の指先には爪も表現されているため、制作者が意図的にこのような形式を採用したことは明らかである。さらに頭光には合掌する帝釈天と梵天が描かれており、これもカーピシー派に特徴的な図像である。この仏坐像の出土地は残念ながら明らかでないが、様式からみて明らかにカーピシー地域の作例ではなく、にも関わらずカーピシー派と共通する図像を有するということは、説法印や頭光に帝釈天・梵天を表す図像がカーピシーからガンダーラの他の地域へ伝播したことを示唆している。ガンダーラの説法印はその後、インドの図像伝統に継承されることはなかった。5世紀末葉(グプタ朝時代)の説法印は掌を斜めに見せる右手は施無畏印のように五指すべてを伸ばし、親指・人差し指・薬指を捻ずる左手は甲を見せる。このグプタ朝時代の説法印はガンダーラにも伝わっており、タキシラのジナン・ワリ・デリ出土壁画断片(注25)にも看取される。このように説法印は時代・地域によって変形しており、施無畏印や禅定印に比して複雑な仕種であるが故に、一定の形式を保つのが困難であったのだろう。おわりに以上の如く、供養者像の検討からカーピシー派の制作年代が2世紀後半へ遡り得ること、それによりカーピシー派弥勒菩薩の説法印が、ガンダーラの説法印の形式化したものではなく、むしろ原形である可能性を指摘した。しかし、カーピシー派の供養者像がガンダーラよりもマトゥラーの供養者像に親近性を持つのは何故かという問題を今後の課題として検討する必要も生じた。また説法印についても、右手で左手を掴んで胸元へ置くという仕種そのものの起源を論ずるには至らなかった。これらの問題を今後の課題としてさらに検討を進めてゆきたい。― 395 ―― 395 ―
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