鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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り、法被をかけた曲彔に威儀を正して座る聖一国師を描いている。これは、万寿寺にある聖一国師像が大幅であるのと共通し、また、ほぼ聖一国師(建仁2年(1202)10月15日~弘安3年(1280)10月17日)の没後100年に当たる頃にえがかれていることからも、開山聖一国師の100年遠忌(康暦元年(1379))の際描かれたと考えるのが妥当である。一方、その同じ聖一国師の修行中の姿を描いたものが聖一国師岩上像(東福寺)である。こちらは一転して水墨でえがかれた縦35cm横42cmの小ぶりのものであり、岩の上に座って休む聖一国師の姿を描いている。これは経行像としても知られ、同じく大道一以像(奈良国立博物館)も水墨でえがかれたもので、樹下で休むとも威儀を正すとも見られる大道一以に鹿と鷺が脇侍する姿である。蔵山順空像 京都・永明院蔵、春屋妙葩像 京都・光源院、円爾像 山口・正慶院白崖宝生像 伊勢崎・泉龍寺 はいずれも著色で威儀を正した姿で描かれたものである。春屋妙葩像 京都・光源院は永楽二年(応永11年(1404))、春屋妙葩(応長元年(1311)~元中5年/嘉慶2年(1388))の門弟・昌繕が明兆の描いた師の遺像をもって明にわたり、杭州浄慈寺の住持であった祖芳道聯に着賛を依頼したものであることが賛文よりわかる。制作は賛の入れられた応永11年以前の応永初期の頃であろう。白崖宝生像(着賛は応永33年で、像の制作はそれ以前)は、白崖宝生の十三回忌に称光天皇より普覚円光禅師の勅号を賜ったため、明兆が頂相の制作を依頼され、賛を春屋妙葩の法嗣の厳中周噩へもとめたという契機が賛文よりわかるものである(注3)。白崖宝生は幻住派に属し、かつ、法燈派、無学祖元の仏光派、大応派、さらには曹洞宗とも交流があり、そうした広い交友関係の中で法孫が像を明兆、賛文を厳中周噩に依頼したのではないかとされる。このように、春屋妙葩像、白崖宝生像については、それぞれ明兆の属した東福寺聖一派ではなく、夢窓派、幻住派からの依頼で描いたことがしられており、明兆の作画活動の広がりや制作の背景─33回忌に使用─が明らかなものである。次に単独の祖師ではなく、列祖図として描かれたものも幾つか存在する。明兆落款の作例、百丈懐海像・慧明禅師像・応庵曇華像・破庵祖先像は1幅に1人づつえがかれ現在所蔵が別れるが、もとは一具であったことがわかっている。これらは多幅の列祖図の一部であった可能性が高い。しかし、この4幅を細かくみていくと明兆の描いた他の作例(後であげる釈迦三尊三十祖像7幅など)にみられる特徴─叉手した姿勢でできる法衣の襞の膨らみや衣紋線の種類、ややつり目がちな尊宿(住持をつとめた高僧)の顔貌表現─はこの4幅においてはばらつきがみられ、保存状態を― 402 ―― 402 ―

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