鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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けるためという「祖師崇拝説」とが並立しているといえ、特に印可証明説が強い印象を持つのは、寿像への本人の賛が入れられた頂相・語録の賛文が数多く存在するためと考えられる。頂相の制作理由については、上記の例をみてもそれぞれの制作背景に相異がかなり認められ、使用用途もふくめ頂相それぞれの個別研究が必要であるという点では大凡が同意している。今回幾つか他の頂相の使用例を挙げ、今一度頂相の持つ文脈について再検討したい。印可証明説、祖師崇拝説と少し違った頂相の使用法としては、応永30年(1423)4月25日、足利義持が等持院の釈迦三尊像絵像、聖一国師、絶海中津の像の前で落飾したという記述が『満済准后日記』などに見られる。次に、惟肖得巖の『東海瓊華集』(注8)(『五山文学新集』巻二)「勝定院(足利義持)殿畫像(前略)萬年(相國寺)前席仲晦(周光)和尚、命工圖顯山大相國并持地法兄(嚴中周噩)禪師慈像、裝背尺度、二幅如一、舒之左右相面、使人起敬不已、屬予製之賛辭、焚香薫手、以書、正長元年臘月日、(一四二九)同嚴中(周噩)和尚像(前略)南禪前席嚴中大和尚慈像賛辭、其説見于顯山相公彎末、并讀可也、視者誌之、」この義持の肖像画と厳中周噩の頂相は、厳中の法弟である相國寺の仲晦周光和尚(相国寺無住)(注9)が作らせたもので、義持と厳中周噩の肖像と頂相は表装・大きさが同じで左右向き合っていた。このペアの2幅の肖像画は、翌年永享2年(1430)1月18日の義持の三回忌を相国寺で行なうため、義持が敬愛した厳中周噩の頂相と義持の肖像画を一具で作らせたと推察される(注10)。この二例には、敬愛する尊宿とあたかも同じ空間に存在するように「場」をしつらえるという観点が見られる。禅僧たちは、掛眞された頂相に向かって生前のように問答をおこない、尊宿を忍び、尊宿の追善供養をなす。椅子に法被をかけ威儀を正した姿で座る尊宿の頂相は法堂での法語の際の尊宿の姿であり、在りし日の尊宿の問答をそれを知るものは思い出して供養としたであろう。こうした祖師忌は南宋に盛んに行われ、その掛眞の作法や頂相(眞)は、儀礼と共に主に禅僧により日本にもたらされた。南宋の頂相制作の一例として、杭州妙行寺― 406 ―― 406 ―

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