(注11)の頂相の集積および、当寺院が画像集積センターとして機能し、所蔵する多くの頂相をもとにして新たな頂相、祖師図が制作され、入宋・入元僧などにより日本にもたらされた可能性を井手誠之輔氏が指摘している。日本で杭州妙行寺のように「頂相が集積」され、「画像センター」のような役割を果たす「場」の例として確認できる初期のものに円覚寺仏日庵がある。同庵に伝わる『仏日庵公物目録』は、元応2年(1320)に存在していた目録をもとに貞治2年(1363)に作られたもので14世紀初めの寺の什物とともにその後のモノの流れについて知ることができる史料であり、これには「諸祖頂相」として頂相が三十九鋪挙げられている。そこには中国禅宗の高僧たちが数多く含まれており、北宋末に中国禅林の主流となった臨済宗から南宋では楊岐派が台頭し、そこから大慧宗杲よりはじまる大慧派、虎丘紹隆以下松源崇岳の松源派、破菴祖先の破菴派、曹源道生の曹源派が含まれていることが指摘されている(注12)。次に『臥雲日件録』文安4年(1447)6月の条「十五日、―侍衣出公府文庫所藏諸祖像。掛之爐間。蓋防蠹毀也。大抵皆半身像。大惠像、有無垢居士贊、(中略)又臨濟像二幅、皆有贊、一云、「蒿枝子拂著、便作師子吼、一喝如迸雷、須彌山倒走。」妙智居士、以臨濟祖師索贊、遠孫宗杲謹題。一云、「黄檗棒頭曾不動、高安灘畔錯商量、從遍界生荊棘、佛法無一寸長、法孫徳光稽首贊。」其外趙州・密菴・無見像、皆非自贊。佛鑑像二幅、皆自贊。中峯像、自贊。偃溪像、自贊。以左爲首而書、然像非主位。其餘像、亦皆賓位半身。就中密菴・中峯、坐曲録。凡此諸像、盡面目奇偉、觀者驚歎。」幕府の文庫に諸祖像がありその大抵が半身像であり、一方で曲彔に坐した像もあったという。これらの頂相は、自賛が入れられたものや法嗣が着賛したものなどあり、形式の違い、同一人物の頂相の存在から、幕府の文庫に納められていた頂相は制作事情が様々なものが集まったものと考えられる(注13)。また半身(像)とは、夢窓礎石半身像(無等周位筆)〔図10〕のようなものであろう。半身像については、『空華日用工夫略集』1応安4年2月8日「八日、少室作二偈、送明教祖師半身頂相(雲門宗の祖師,明教大師契嵩のことカ)、偈曰、而今寄掛錦屏上、輔教正宗偏屬公、又曰、今之義老古明教、今古應無第二人、余和其韻謝之、乃釘掛頂相、設供而□拜、祈護宗之冥助矣、」とあり、錦の屏風に寄り掛けたり、釘を打って頂相を掛けたりと具体的な掛け方がわかり興味深い。― 407 ―― 407 ―
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