手を組んで衣から指を出している作法は叉手と呼ばれ、敬意を持って相手と対したり(問答のときなど)、歩いたり(経行・行道)する際の手の組み方である。『禅苑清規』「小参」に「叉手當胸握右手在上」、『夢窓語録』に「夏中謝藏主上堂。舉。古有僧、在經堂中坐。藏主云、如何不看經。僧云、不識字。主云、何不問人。僧叉手云、是什麼字。藏主無語。」などがあり、住持の説法、上堂し本則をいうその祖師に対し僧が返答する際に手を組んでいることがわかる。ほか、儀式の最中に堂内をまわって歩く行道の際や、修行中山中に入る経行の際にも叉手をする。なお、半身像の頂相は管見の限りでは叉手のものがほとんどである。初期の叉手像としては、円爾弁円像(自賛・1264年・天授庵)蘭渓道隆経行像(建長寺)〔図11〕、復菴宗己経行像(自賛・法雲寺)などが挙げられる。また伝馬遠 禅宗祖師図などにも叉手の表現が確認できる。こうした作法もともに請来された。以上のように、祖師図はかなり頻繁に様々な仏事に使用されており、その際は、「上堂」「巡堂」「献茶」「献湯」「行道」「回向」と言った次第が行われるが、これらは宋代の儀礼の一様であり、宋代儀礼が請来されそのまま日本で行われていたことは近年特に明らかになりつつある(注14)。フィリップ・ブルーム氏は儀礼美術を「奉請」「供養」「奉送」という行為で構成された斎または会のような儀礼と規定している。そして、その儀礼は「香の香りや太鼓の音、経文を諷誦する僧侶の声」により、「尊格が香雲に乗り、道場へ降臨」すると述べる。また、西谷功氏は「宋代の遠忌儀礼はこうした一場面から数場面を表彰した肖像に対して他の行状を重ねて礼賛、あるは他の場面は観想・想念して頂礼していたのだろう。南宋代の肖像が・肖像彫刻はこうした礼讃文をイメージ化し、儀礼空間や祖師堂に奉安されていたとみられる」と述べる。つまり、祖師忌というのは、単なる祖師への供養という意味だけではなくその場に「降臨」してもらい、供養を受けてもらって、一心に頂礼する儀礼であると考えられる。別の頂相の使用例に、懺悔のためという意味合いもあったことが『臥雲日件録』応安3年(1370)7月30日の条にみられる(注15)。ここには「すなわち開山祖師の真に対して罪を懺するなり」とあり、懺法が観音の供養であり懺悔の儀礼でもあることと共通する。応永30年(1423)将軍足利義持が等持院で絶海、聖一の像の前で落飾したことも義持の絶海中津と聖一国師に対する敬慕の念と同時に時空を超えてあちらの尊宿とつながりたいという願望が見て取れよう。このように頂相はそれを掛けて、尊宿と対峙し、師の法を受ける場面を想像したり、問答を再現したりする際にも使用された。さらにその舞台装置として、香、湯、花、煙、諷誦など、五感を働かせる次第が行われた。それがみられるのが、祖師の語録にある― 408 ―― 408 ―
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