鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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注⑴頂相という言葉については、海老根聰郎氏がその使用例を詳細に検証し、「禅僧の肖像画の新しい呼称、新語なのであ」り「全く新しい造語ではなく、もとから存在した言葉に新しい意味を付与し」たものであり、南宋末にはすでに頂相の役割は制度化していたと述べる。(「頂相管窺」『講座日本美術史 四』東京大学出版会2005年)く、落飾の際や懺悔の際など幅があったこと、宋代の儀礼の意識が受容され日本でも儀礼が行われていたこと、明兆がいた東福寺はそうした文物が集まる場の一つであったことを確認した。そしてその背景には、敬愛する祖師との同席感、迎え、香を炊き、茶を献じ、湯を献じてその場を共有し、供養し、奉送するという、宋代以来の儀礼観が、頂相を使用する儀式においても共通するということを記して筆を置きたい。頂相の姿、諸相については今後さらに考察をすすめていきたい。⑵東福寺には入宋した聖一国師が持ち帰った無準師範自賛像(嘉煕2年(1238))があり、これを頂相の手本として以降制作されたとかんがえられる。⑶『禅寺の絵師たち』山口県立美術館 2008年山田烈「明兆筆白崖宝生像」『日本美術史の杜─村重寧先生・星山晋也先生古稀記念論文集』竹生舍 2008年⑷もちろん、祖師図・列祖図が移動することも考えられるので伝来をふまえることも重要であるが、現在所有する寺院においてその法脈が重要であったという証左となろう。⑸『敕修百丈清規』訢笑隱尊祖章序に「宜祀達磨於中。百丈陪于右。而各寺之開山祖配焉。見於祖堂綱紀序云」とあり、まず達磨と百丈そして開山を祀った。⑹東福寺関係の清規。尾﨑正善「翻刻・京都大学文学部図書館蔵『東福寺清規』(一)(二)」『鶴見大学仏教文化研究所紀要』(16)、(17) 2011、2012年⑺其時の塔主の祖師をいう、そのためその時々で像主は変わる。⑻『東海瓊華集』の著者・惟肖得巖は、厳中周噩とはほぼ同時代に活躍した臨済宗平慧派の人で、絶海中津など多くの禅僧に歴参し、伝明兆筆の渡唐天神図(聴松堂文庫)に着賛している。⑼『室町時代の相国寺住持と塔頭 蔭凉軒日録を中心に』相国寺研究六 中井裕子 相国寺教化活動委員会 2013⑽賛は惟肖得巖が正長元年(1429)の12月に入れている。⑾井手誠之輔「中峰明本自賛像をめぐって」『美術研究』343 東京国立文化財研究所 1986年⑿仏日庵は北条得宗家の菩提寺としての特殊な位置付けをもった塔頭である。(高橋範子「仏日庵公物目録の世界」『日本の国宝』別冊七「国宝と歴史の旅」鎌倉大仏と宋風の仏像 朝日新聞社 2000)⒀将軍の元に頂相がある例としては、南嶺和尚の頂相が、和尚の示寂した貞治2年(1363)以降に、和尚を崇拝していた将軍足利義満により、頂相が2枚作られ、1枚は自分の館に置いて供養し、1枚は山口東隆寺に与えて寺の栄誉とさせたというものがある(「南嶺和尚道行碑文」)。幕府の文庫に納められた頂相は、このように集められたものだと考えられる。⒁フィリップ・ブルーム「視覚化された儀礼と観想─大徳寺伝来「五百羅漢図」における水陸会の表現─」西谷功「泉涌寺旧蔵「涅槃変相図」とその儀礼の復元的考察─鎌倉時代における宋― 410 ―― 410 ―

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