㊴ 半跏思惟像と弥勒信仰に関する研究─朝鮮三国時代の磨崖仏を中心に─研 究 者:奈良県教育委員会事務局 文化財保存課 技師 鏡 山 智 子はじめに右足を踏み下げ、右手を頬の辺りに上げて思惟する姿の半跏思惟像が、いつ、どのような経緯で弥勒と結びついたのかという問題は、長年多くの関心を集めてきたが未だ明らかではない。中国における半跏思惟像は、観仏修行者の象徴、あるいは太子思惟像として造立されたことが知られるが、弥勒との直接的な関係を窺うことはできない。一方、朝鮮三国時代や飛鳥時代にはとりわけ多くの半跏思惟像がつくられた。それらの中には、韓国世宗市蓮花寺の戊寅年銘四面碑像(678)の「阿弥陀弥」銘(注1)や大阪・野中寺の丙寅年銘半跏思惟像(666)の「弥勒」銘など、弥勒との直接的な結びつきを示す作例が存在し、半跏思惟像そのものが弥勒とみなされていた一面が窺える(注2)。また単独像の中にも、榻座下部に、菩薩が地上遥か上方にある兜率天にいることを示す山岳景をあらわす像が存在し、朝鮮三国時代や飛鳥時代の半跏思惟像が弥勒菩薩として造立されたことを暗示するものと考えられている(注3)。しかしこうした山岳景が付随する半跏思惟像はごくわずかに過ぎず、多くの半跏思惟像については弥勒との関わりを知ることが困難である。朝鮮三国の弥勒信仰に関しては、しばしば新羅の花郎とよばれる青年貴族集団と関連づけられてきたが、極めて社会的な背景からの説明であると言え、花郎信仰と半跏思惟像との結びつきは曖昧である。また百済や高句麗の半跏思惟像については等閑視されているのが現状である。そこで本研究では、朝鮮三国時代の磨崖群像中の一体として表された半跏思惟像に注目する。半跏思惟像をとりまく周囲の図像から、その信仰背景に関する従来の解釈を整理・考察し、弥勒信仰との関わりや信仰の変遷について考える手がかりを得たい。1.問題の所在弥勒信仰には、死後の兜率天往生を願う上生信仰と、弥勒が釈迦の入滅後、五十六億七千万年後に現世に下生することを願う下生信仰の二つがあり、多くの場合前者は菩薩像、後者は如来像として表される。こうした弥勒信仰と半跏思惟像の関わりを考える上で、まず先行研究において重要視されてきた中国における交脚弥勒菩薩の脇侍的存在としての半跏思惟像をめぐる論点を確認しておく。― 415 ―― 415 ―
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