中国では北朝期から隋代にかけて、弥勒上生信仰の根本経典である沮渠京聲訳『観弥勒菩薩上生兜率天経』(『上生経』と略称)にもとづく兜率天の交脚弥勒に、半跏思惟像が伴う表現がしばしば見られる。これらの半跏思惟像については、『上生経』に「兜率天に往生したいと願う者は全て弥勒菩薩に思いを繋いで念じる弥勒の観想を行うべき」と説かれることから、「兜率天に至る前提としての修行者の「思惟」を象徴的に図像化したもの」とする見解が示されている(注4)。また齋藤理恵子氏は、敦煌莫高窟の弥勒上生経変相図にみられる半跏思惟と倚坐の姿勢をとる菩薩像の典拠を具体的に『上生経』の記述に求め、脇侍的存在としての二軀の菩薩が、交脚像と同じく弥勒菩薩である可能性に言及されている(注5)。これらの説は半跏思惟像を弥勒菩薩と見なす直接的な根拠とは言えないものの、脇侍的存在の二軀が主尊である交脚弥勒菩薩の性格を反映している可能性は高いと思われる。敦煌の弥勒経変相図は、隋代には上生経変相図のみであったのが、初唐に入ると『弥勒上生経』と『弥勒下生経』の両方の内容を含むようになることが指摘されている(注6)。この隋代から初唐にかけての弥勒経変相図における変化は、朝鮮三国の弥勒信仰関連の造像にも影響を与えたものと推測される。ところで崔聖銀氏は近年、四川省成都万仏址寺出土石像の背面〔図1〕に弥勒仏の三会説法の場面を表す下生経変が浮彫されることから、弥勒下生信仰が流行し始めるのは南朝の梁であることを指摘された(注7)。そして、百済武王時代(600~641)に造営された益山弥勒寺の三院並列形式をとる伽藍配置は、百済と密接な交流があった梁からの影響を直接的に受けたものとされている。崔氏の見解にもとづくならば、少なくとも百済においては、かなり早い段階から弥勒下生信仰関連の造像が行われていた可能性があるだろう。近年兜率天の造形化に関して詳細な研究をされた泉武夫氏は、朝鮮半島では「上生信仰がどのように造形として現れたかという点については判然としない」と述べ、「造形化の点では下生信仰関連のほうがはるかに重みを占める印象が強い」とされている(注8)。以上から朝鮮三国時代の弥勒信仰関連の造像を考えるにあたり、上生信仰にもとづく造像が行われたのか、また下生信仰関連の造像には地域や時代による変化が認められるのか、という点が問題となってくる。次節では実際の磨崖仏作例を通して、これらの問題を考えてみたい。2.朝鮮三国時代磨崖群像中の半跏思惟像─毛利久氏の説から半跏思惟像が確認できる朝鮮三国時代の磨崖仏には、以下(a)~(e)の5作例が― 416 ―― 416 ―
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