ある。磨崖仏ではないが半跏思惟像を含む群像形式をとる作例として(f)・(g)も重要となる。(a) 瑞山磨崖像(忠清南道瑞山市雲山面)(b)断石山神仙寺磨崖像(慶尚北道慶州市近郊)(c) 鳳凰里磨崖像(忠清北道忠州郡中原)(d)南山塔谷磨崖像(慶尚北道慶州市)(e) 邑内洞磨崖像(大邱広域市北区)(f)戊寅年銘四面碑像(世宗市蓮花寺所蔵、678年)(g)金堤市出土銅板半跏思惟像(国立全州博物館所蔵)朝鮮三国の弥勒信仰関連の磨崖像を考えるにあたり、まず毛利久氏の論考が注目される(注9)。毛利氏は、(a)瑞山磨崖像、(b)断石山神仙寺磨崖像、(c)鳳凰里磨崖像において、半跏思惟像と如来像がともに表されることに着目し、如来像が下生後の弥勒仏とみなし得ることから、いずれも上生信仰と下生信仰の双方に関わる造像であると指摘された。田村圓澄氏、大西修也氏も同様の見解をとり、6世紀末の制作と推定される鳳凰里磨崖像の時期頃から下生信仰の高まりが認められるとする(注10)。これら磨崖像3例のうち断石山神仙寺磨崖像は、造像当初と考えられる銘文中に「弥勒」と確認できることから、総高約7メートルもの巨大な如来立像〔図2-1〕が弥勒如来であるとの見方はほぼ定説となっている(注11)。半跏思惟像は、弥勒如来に比定される如来立像の西側の壁面に表されており、さらに西側には仏、菩薩、仏の順で立像が並ぶ〔図2-2〕。いずれの仏菩薩も手を半跏思惟像の方に向けており、観者の視線を半跏思惟像へと誘導している。この半跏思惟像を含む仏菩薩群が壁面上方に表される点からは、地上遥か上方にある兜率天という認識も窺われる(注12)。一方瑞山磨崖像〔図3〕は、毛利氏以降の研究で法華経信仰と習合した弥勒信仰の変容が認められるとの指摘がなされ(注13)、地方あるいは民間信仰の中で生まれた種々の曲解が基となった可能性も想定されている(注14)。弥勒信仰のみでは解釈できないこうした複雑な信仰背景は、蓮花寺戊寅年銘四面碑像についても同様で、『大無量寿経』がその後半部において弥勒菩薩を相手に説かれることを背景とした、7世紀後半における阿弥陀信仰と弥勒信仰の結びつきが指摘されている(注15)。ところで鳳凰里磨崖像〔図4-1〕については最近、朱秀浣氏によって新たな解釈が示されている(注16)。鳳凰里磨崖像は、ヘッコル山中腹の東南に面した岩壁に彫刻された磨崖群像で、如来坐像と片膝を立てて如来を跪拝する供養者像各一体を表す― 417 ―― 417 ―
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