本磨崖像は、半跏思惟像を中心とする区画、高浮彫の如来坐像を中心とする区画、そして線刻九層塔の3区画に図像が集中する。まず半跏思惟像の区画は、張り出した岩壁の上方に表されている。2体の菩薩立像に囲まれており、向かって右側の菩薩の右側にはもう一体の菩薩像、さらに下方には数体の仏菩薩が線刻されている〔図5-2〕。半跏思惟像が岩壁の上方に表される点は断石山神仙寺磨崖像に共通しており、兜率天上の弥勒菩薩という認識が窺われる。半跏思惟像が数体の仏菩薩に囲まれる点も同様で、この場面の主尊は半跏思惟像と考えてよいだろう。半跏思惟像が弥勒菩薩であるとすれば、本磨崖像においてひと際大きく高浮彫で表された如来坐像が次に問題となろう。如来坐像は袈裟を通肩に纏い、通常の施無畏・与願印とは逆の「逆手」の印相を結ぶ姿で、宝珠形の頭光と方形台座を背に坐している〔図5-3〕。如来像の両脇には、やはり他の区画よりも大きく表された菩薩像各1体と、比丘像各3~4体が確認できる〔図5-4〕。比丘像の像容は明瞭ではないが、右脇では前面で合掌して立つ比丘像が確認できる。この区画に表された「逆手の印相をとる如来」と「合掌する比丘像」の図像から想起されるのが、『弥勒下生経』や『弥勒大成仏経』にもとづく、兜率天での修行を終えた弥勒が下生して龍華樹のもとで説法を説く場面である。弥勒は下生して弥勒如来となった後、釈迦の死後絶えていた正しい教えをこの世に説き広めるため迦葉の住する山中の禅窟を訪ね、迦葉から釈迦より受け継いだ袈裟(僧伽梨)を授かると説かれる。この場面について最も詳しく説く鳩摩羅什訳『弥勒大成仏経』では、迦葉は「衣服を斎整し、偏に右肩を袒ぎ、右膝を地に著け、長跪合掌して釈迦牟尼の僧伽梨を持し、弥勒に授与し」たとし、これに対し弥勒は「釈迦牟尼の僧伽梨を持し右手を覆ふに遍からず、纔に両指を覆ふのみなり。また左手を覆ふに亦両指を掩ふのみなり」と袈裟を右手で受け取ったことを明記している(注23)。本磨崖像において、合掌する比丘像が偏袒右肩ではない点や跪かない点は経典中の記述とは異なっており、僧伽梨そのものが表されているのかどうかも判然としないが、僧伽梨と指2本の対比をもって弥勒仏が巨大であるとする点は、本如来像が磨崖仏中最も大きく高浮彫に表された姿に通じる。敦煌の弥勒下生経変に迦葉が登場するのは盛唐以降であるが、新羅では6世紀半ば過ぎに瞑坐する迦葉の石像が存在したことが『三国遺事』に記されており(注24)、かなり早い時期から迦葉に対する信仰を認めることができる。造形化されたものとしては、慶州南山塔谷磨崖像の東面に表される比丘像〔図6〕が、敦煌の弥勒経変にみ― 419 ―― 419 ―
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