注⑴黄寿永「忠清南道燕岐石像調査─百済遺民による造像活動─」『韓国仏像の研究』同朋舎、る迦葉禅窟の様子と類似しており注目される。こうした三国時代における迦葉への信仰が基盤となって、弥勒下生の場面において迦葉を重要視する信仰へと繋がったとも想像される。ところで、邑内洞磨崖像の逆手如来像の右脇上部には仏倚坐像が表されている〔図5-5〕。線刻の浅さと亀裂により像容が明瞭ではないが、2体の如来像のうち向かって右側の如来は両足を前に垂下させている。仏倚坐像としては、慶州南山三花嶺で出土した如来倚坐像が『三国遺事』との照合から弥勒如来に比定されており、善徳女王12年(644)頃の造立と見なされている。本磨崖像の如来像の上部に表される倚坐像が何を表すものかは今後図像全体の中での更なる検討を要するが、邑内洞磨崖像の如来像の区画が弥勒如来に関わることを傍証するものとも捉えられよう。また、逆手の如来坐像の向かって左側に表される線刻九層塔は、三国時代の類例として慶州南山の塔谷磨崖像南面の九層塔が挙げられる。『三国遺事』には、善徳女王14年(645)に百済の工人の援助を受けて、慶州皇龍寺の九層塔が完成されたことが記されており(注25)、同時代的な要素とみなし得るかも知れない。以上のように、邑内洞磨崖像の主要な図像からは、『上生経』と『下生経』の双方が関わる可能性があると言えるだろう。おわりに本報告では、半跏思惟像を表す朝鮮三国時代の磨崖像について、近年の研究を受けながら論点の整理と考察を行った。半跏思惟像を表す磨崖像は従来、『上生経』と『下生経』の両方の内容に関わる造像と考えられてきたが、半跏思惟像とともに表される如来像は一概に下生後の弥勒仏とは見なせない可能性がある。如来像の解釈については『上生経』と『下生経』の関係にも関わるため、両信仰への理解を深めながら検討を進める必要がある。また、邑内洞磨崖像については『上生経』と『下生経』の双方に関わる造像である可能性があることを示した。報告中では概要を示したにすぎず、今後図像全体の中でさらに検討を重ねる必要があると考えている。各磨崖像作例の制作地や制作年代から地域や時代による信仰の変遷についても捉える必要があり、上記問題とともに今後の課題としていきたい。― 420 ―― 420 ―
元のページ ../index.html#430