鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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寶庫 岩壁に無数に走る横方向の亀裂は、水により浸食された結果とも見られている。 報告者は邑内洞磨崖像の制作年代を三国時代末期と考えている(拙稿「法輪寺薬師如来像・伝1978年⑵大西修也「阿弥陀・弥勒信仰の実態と図像─菩薩半跏像=弥勒像説へのアプローチ─」町田甲一先生古稀記念会編『論叢 仏教美術史』吉川弘文館、1986年⑶法隆寺献納宝物第159号、160号菩薩半跏像(東京国立博物館所蔵)に鐫刻で表されている他、朝鮮三国の制作である可能性が最近指摘された兵庫・慶雲寺の菩薩半跏像の榻座にも立体的な山岳景が表されている(藤岡穣「京都・某寺と兵庫・慶雲寺の半跏思惟像」『美術フォーラム21』第32号、2015年)。⑷浅井和春「菩薩半跏像 観松院」『國華』第1116号、1988年⑸斉藤理恵子「敦煌莫高窟の弥勒経変相図の研究」『鹿島美術研究』年報第15号別冊、鹿島美術財団、1998年⑹尾崎直人「敦煌莫高窟の弥勒浄土変相」『密教図像』2、1983年 百濟 彌勒寺 佛像」『⑺崔聖銀「2010年⑻泉武夫「兜率天弥勒と兜率天宮図の系譜」平成19年度~平成22年度科学研究費補助金基盤研究(B)研究成果報告書『兜率天往生の思想とそのかたち』、研究代表者泉武夫、2011年⑼毛利久「朝鮮三国時代の弥勒浄土磨崖像」『文化財学報』第1集、奈良大学文学部文化財学科、1982年⑽田村圓澄「半跏像と弥勒信仰」(『古代朝鮮仏教と日本仏教』吉川弘文館、1980年)、大西修也『日韓古代彫刻史論』(中国書店、2002年)。⑾黄寿永「八、断石山神仙寺石窟磨崖像」『韓国仏像の研究』同朋舎、1978年⑿東壁及び南壁に表される尊像の図像の解釈については、南壁の図像とともに今後の課題としたい。なお韓国では、阿難・迦葉説(高恵蓮、2013年)、無著・世親説(朱秀浣、2015年)などが示されている。⒀大西修也『日韓古代彫刻史論』中国書店、2002年⒁前掲注⑷浅井氏論文⒂岩佐光晴「伝橘夫人念持仏の造像背景」『MUSEUM』565、2000年⒃朱秀浣「斷石山神仙寺磨崖佛圖像學的再考─授記三尊⒄鳳凰里磨崖像の概要については鄭永鎬氏の報告を参照(鄭永鎬「韓国新発見の磨崖半跏像二例」田村圓澄・黄壽永編『半跏思惟像の研究』吉川弘文館、1985年)。報告中で鄭氏は、左壁の如来坐像と供養者像の下端中央に獅子一体が彫刻されているとするが、現地調査では確認できなかった。⒅前掲注⒀大西氏著書⒆『大正新修大蔵経』第14巻、418頁c⒇金堤市出土銅板半跏思惟像(g)も上生信仰に関わる可能性が指摘されている(高恵蓮『』2011年)。但し、『上生経』は『下生経』を前提として成立しているため、上生信仰の造形化がいかなるものであったのか、下生信仰はどのように関わったのか、等の問題については今後の課題である。虚空蔵菩薩像をめぐって」『美術史』第178冊、2015年)。(口頭発表)― 421 ―― 421 ―解釋試考─」2015年11月、』

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