鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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㊵ 国画創作協会と野長瀬晩花研 究 者:和歌山県立近代美術館 学芸員  藤 本 真名美はじめに日本画家の野長瀬晩花(1889~1964)は、京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学、以下絵専)に学んだ小野竹喬、榊原紫峰、土田麦僊、村上華岳らとともに、大正7年(1918)に国画創作協会(国展)を創立する。京都における在野の日本画団体として位置づけられる国展の第一部(日本画)は昭和3年(1928)に解散するまでの約10年間活動し、古今東西の様々な表現を取り入れた作品の発表により、従来の画壇に新風を吹き込んだ。晩花については、和高伸二『野長瀬晩花』(近野振興会、昭和50年)で画業がまとめられ、平成14年(2002)に笠岡市立竹喬美術館で「夢みる画家 野長瀬晩花」展が、平成20年(2008)に田辺市立美術館・熊野古道なかへち美術館で「野長瀬晩花展」が開催されている。国展に関しては平成5年(1993)の京都国立近代美術館、東京国立近代美術館における「国画創作協会回顧展」をはじめ、原田平作、島田康寛、上薗四郎『国画創作協会の全貌』(光村推古書院、平成8年)などで研究が蓄積されてきた。平成30年(2018)に同会は創立100年を迎えることから、その前年に笠岡市立竹喬美術館で「国展創立前夜」展が開催されるなど、国展の顕彰活動が高まりを見せている。晩花は明治22年(1889)に現在の和歌山県田辺市中辺路町に生まれ、明治36年(1903)に大阪へ出て中川芦月に学び、明治40年(1907)に京都の谷口香嶠塾へ移る。明治42年(1907)に絵専別科へ入るが2年で中退、まもなく第16回新古美術品展覧会出品の《被布着たる少女》で3等賞を受賞し、京都で注目を集めた。最近、国展創立会員の3名が揮毫した図を含む、明治45年(1912)の年記がある画帖が古書目録(注1)に見いだされ、その頃から彼らの間には交友があったと判明した。しかし、晩花は国展創立前の時期に、彼らよりも秦テルヲ、竹久夢二らと行動を共にしていることが多く、和高氏も「ただ独り晩花だけは、彼等(国展の他の作家)とは相当ちがった歩みをしてきていた。(略)洋画技法の積極的採用、日本画の工芸化、加えて異色な人間性の顕示など、既成画壇の在り方からみれば、全く破格に等しい日本画を発表しつづけていた」と述べている。本稿では、国展の作家たちや、京都日出新聞の記者徳美大容堂らによる記事によって、特に国展周辺の動きを詳細に知ることができる、大正期の京都で出版された稀覯雑誌『新京都』(注2)等からの情報を中心に、晩花の国展創立前の歩みを改めて検証し、国展創立を機に変化する彼の制作態度について考― 426 ―― 426 ―

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