察する。一、国展創立前 マイナー・アートにおける研究夢二と晩花やテルヲとの接点を示す情報は、これまで大正6年(1917)以降しか確認されず、明治45年(1912)頃に交友が始まったのではないかと推測されてきたが(注3)、今回その裏付けとなる、夢二をはじめ、晩花、テルヲや大阪画壇の画家が同年に揮毫した画帖が確認された(注4)。おそらくその頃から夢二の感化を受けていた晩花とテルヲは、その年の文展会期中に京都府立図書館で開催された「第一回夢二作品展覧会」に倣ってさらに大胆な試みを行い、大正2年(1913)の文展京都会場前に「カフェタワー」と称して天幕を張り、「バンカ・テルヲ展」を開催する。この展覧会では日本画の他に焼絵額、土人形、千代紙貼絵などが出品されたが、晩花はこの頃、日本画とともに余技的な工芸品をしばしば発表している。特に、明治45/大正元年(1912)頃にテルヲとともに龍村織物に勤めた際に身に付けた「焦絵(焼絵)」の技術は、自家薬籠中のものとして売り出していたようで、大正4年(1915)には漆盆、額、コルクもしくは木板の絵看板に焼絵を施した作品を頒布する「焦絵画会」を組織している(注5)。晩花のこうした作品はときに「工藝品とも、美術品ともつかぬオモチヤ」と酷評されているが(注6)、彼にとっては単なる手すさびや売り物ではなく、芸術的な主張を持つ作品だったと思われる。工芸や図案は、当時文展にも部門がなく、絵画や彫刻といった「純粋芸術」に対して下位の「応用芸術」、すなわちマイナー・アート(小芸術・小美術)(注7)とみなされる風潮があったため、文展会場前での工芸品の展示は、文展へのアンチテーゼを意味しているのではないだろうか。なお、晩花やテルヲらのマイナー・アートへの志向は、同じく小さな工芸品を手がけ、大正3年(1914)には港屋を開店する夢二からの影響による可能性が高いが、晩花の師の香嶠や弟子の津田青楓が明治37年(1904)に「小美術会」を結成していることも見逃せない。明治末から大正初期にかけて日本の工芸界は盛り上がりを見せ、このように美術家が余技的な工芸品を発表する「小芸術品」の展覧会もしばしば開催されている。中でも興味深いのが、京都の工芸界の大御所による作品から青年画家の余技的作品まで、幅広い工芸品が展示された大正5年(1916)の新京都社主催「新芸術品展覧会」で、晩花や紫峰もこれに出品し、記事中で支援者のひとりとして謝辞が述べられている(注8)。工芸品を「小芸術」ではなく「新芸術」として打ち出す動きが国展創立前の京都で起こっており、晩花はその中で活動することが多かった。なお、晩花がこの時期に作品を展示した会場も一風変わったものが多い。例えば、― 427 ―― 427 ―
元のページ ../index.html#437