鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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大正5年(1916)の「バンカ作品展」の会場は「緑紅花園」という田中緑紅の営む園芸店で、和歌山県立近代美術館蔵の「緑紅花園」の出版物とみられる印刷資料(同店で発行していた雑誌『花』の一部か)には、園芸に関する記事の中に美術欄が設けられ、美術と園芸が交錯する趣味的な世界が垣間見える。同年に晩花が徳永鶴泉とともに開催した「鶴泉・晩花作品展」の会場「四條倶楽部」もユニークな会費制クラブで、ビリヤード台、卓球台、碁、将棋、新聞雑誌などを備え、風呂場の設備まであったという(注9)。そして、その記念すべき第一回展覧会が「鶴泉・晩花作品展」〔図1〕であった。この企画は「少し奇抜過ぎて顔合せとして驚いて居る人さへあつた。」というが、「一般人士と美術家の會合懇親を計り趣味と知識の交換を計る」という会場の趣旨としては丁度相応しいように思われる。また、晩花は当時「さくら草」と題した四條倶楽部の広報誌の発刊も計画し、その中心的立場で活動していたようだが、倶楽部が廃業となり、出版も頓挫している(注10)。大正初期の晩花らの活動や交友範囲には、頽廃的、反体制的、ジャンル横断的、趣味的な傾向が認められるが、そうした自由な創作活動を下支えする場が巷に存在していた。当時の京都には、若手画家たちの余技的な「小芸術品」や日本画(しばしば新画と称される)を取り扱い販売する「小芸術品店」や「新画屋」が多数存在し、主要なものでは三角屋、佐々木文具店(注11)のほか、小品堂、つくし屋、平安画房、祇園荘などが挙げられる。これらには、「祇園荘」の西原斜夕や「小品堂」の田中美風といった俳人など、何らかの文化人が運営に携わる傾向があり、例えば「祇園荘」店主の斜夕が「大に儲けてそして無名の青年畫家の爲に好意あるパトロンになるのが目的」と語るように、彼らは商売の傍ら、売れない青年画家を支援しようとしていたようだ(注12)。また、店の宣伝も兼ねて自らの文芸作品や青年画家たちの活動を発信するため、雑誌を発行するケースも多い。佐々木文具店の発行する『鳳梨』や、『光芒』とその後続誌である『黙鐘』などの雑誌には、当時の晩花周辺の若手芸術家たちの状況がうかがえる。京都市立美術工芸学校(美工)や絵専に在学中、あるいは同校出身の無名画家の多くは苦境に立たされており、その様子を綴ったものとして、早世した学友の古谷定次郎について、河合卯之助が『黙鐘』(1-7、大正4年6月)に残した文章「夜の憧憬者の死」がある。古谷は明治41年(1908)に美工絵画科を卒業した人物だが、染織図案の仕事で糊口をしのぎ、「『窮迫の裏に力強く生きる』ことを自覺し、喜んでいた」という。古谷が描いていた作品の詳細は未だ確認できないが、河合が見たのは寒冷紗に特異な材料を介して顔料を塗抹したもので、「畫絹ともカンバスとも似つかない」寒冷紗など、古谷の― 428 ―― 428 ―

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