鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
439/507

採用した技法や材質は「窮乏の裡に發見した彼獨特のものであつた」とも述べられている。ザラザラとした寒冷紗は大正5年(1916)頃の作とされるテルヲの《吉原の女》〔図2〕や、晩花の第4回国展出品作《スペインの田舎の少女》(1924)にも用いられるが、新しいマチエールを演出するだけでなく、彼らの反骨精神を象徴していたのではないだろうか。なお、彼ら京都の学校出身の画家は概ね円山・四条派のマンネリズムに愛想をつかしており、全く師風を継承しない「鬼子」もいたといわれ(注13)、前掲の『黙鐘』には「對畫壇の主張 栖鳳離るべし」という過激な論説まで登場し、随所に彼らの「アンチトラヂシヨン」の態度が表れている。華岳や波光の初期作にもうかがえるように、彼らは琳派や浮世絵などの他の画派も研究するが、それに飽き足らない急進的な画家たちは、もう一歩踏み込んで、日本画・洋画あるいは絵画・工芸の枠組みすら越える表現を追究していた。晩花の西洋絵画への関心は明治42年(1909)の写生帖に既に表れており、彼がゴーギャンに傾倒し始めるのも、大正元年(1912)頃の香嶠塾では「近年少壮の人々がゴーガンなどの畫を頻りに持て囃しつゝあ」ったとされるため、おそらくこの頃からと思われる(注14)。また、晩花は大正4年(1915)の第9回文展に出品された辻永の油彩画《落葉》〔図3〕にも「一種の共鳴を得た」らしく、それに対して記者は辻の表現には晩花の千代紙細工に通じるところがあると納得している(注15)。晩花が当時手がけたと確かにわかる千代紙細工は未だ発見されていないが、彼の《秋の頃》(1917年頃)〔図4〕の少女の着物や女性の前掛けなど、洋画の点描のように荒々しく点々と顔料を塗り重ねた表現は、不定形の紙片を画面に貼っていく千代紙細工に着想を得たものではないだろうか。そのほか、古谷と同様に、晩花やテルヲも、染織図案の経験を有していたが、彼らの工芸方面での仕事は少なからず絵画制作にも反映されたようで、美工図案科卒のテルヲに対して徳永鶴泉は「普通に繪畫を習ひ込んでは遂に秦位の奇抜なアノ仕事は出來ない」(注16)と語っている。さらに、テルヲらは『京都日出新聞』の「こどもらん」で、子どもの絵の模写を行って、そのデフォルメされた造形感覚に触れている(注17)。晩花も「こどもらん」に参画しているほか、「鶴泉・晩花作品展」でも、晩花自身が子供の絵を募集し、自分の作品と一緒に展示したのは注目される(注18)。京都画壇における円山・四条派のマンネリズムを打破するために、彼らは未だ芸術と認められていないものにも積極的に価値を見出すことで、既成概念にとらわれない製作を意識していたと思われる。こうした傾向を「所謂京都派の技巧を超越したものとなるだらう」と好意的に解釈― 429 ―― 429 ―

元のページ  ../index.html#439

このブックを見る