する者もいたが(注19)、晩花はやはり中央の画壇で受け入れられず、国展の他のメンバーと違って一度も文展や院展に入選しなかった。晩花は大正2年(1913)に文展へ反旗を翻した先述の「バンカ・テルヲ展」のほか、大正4年(1915)にも「みんな審査員に指圖されてヘイ〳〵と言ひ乍ら描いた様なものばかり、賞のついたのは上になる程厭でした、美術院は自由な畫があるけれどそれが既に院式になつて居るだけ厭な感じを深くした」(注20)と語り、反文展・反院展の態度を明確に示していた。しかし、大正5年(1916)の秋には、第10回文展への出品作として「舞妓」を、第3回再興院展には「旅藝人」を制作し(注21)、その後落選している。この落選時の記事には、晩花の文展出品への態度は「戀を思ひ乍ら押繪細工をして居た女の様な態度」(注22)であったと記され、のちの晩花の述懐でも「僕が文展制作をする時は、いつも岩に卵を打突るやうな心持ちで描いた」(注23)と語られるように、落選が目に見えていながら出品しており、一貫して強硬な姿勢を示したわけではなかった。和高氏によると、晩花の大正6年(1917)の《秋の頃》も文展落選作の可能性が高く、おそらくこれらの落選を一つの契機として、麦僊や竹喬たちと接近し、それまでとは異なる交友関係を築きながら新団体の創立に乗り出していった。二、国展創立後 マイナー・アートからの脱却文展や院展の入選歴もない晩花は、東京では無名に等しい存在だったが、大正7年(1918)に国展が創立されると途端にその名が広まった。とはいえ、晩花は国展会員中で依然として異色の存在であり、伝統重視の画家からは軽視され「『晩花などが、鑑査し、審査する様な會へ、俺たちは出品するのは嫌だ』といふ様な聲」さえあったという。一方で、かつて晩花の友であったテルヲや夢二はというと、テルヲは大正4年(1915)に吉原研究のため東京へ拠点を移し、夢二は京都にいたものの、国展結成を機に晩花と距離が出来てしまい、「晩花も審査員などのヱラものになつて、社會的に忙しいと見へ、俺等の方へはスツカリ見限つて仕舞つた」とこぼしていたらしい(注24)。今回多くは触れないが、かつて一世を風靡し、晩花だけでなく多くの青年画家たちに強い影響を与えた夢二からの脱却は、彼らにとってひとつの宿命であったように思われる。例えば、晩花と同時期に夢二と交遊していた東京の恩地孝四郎も、やがて夢二から離れて創作版画の世界を切り拓いた。ただし、晩花は彼とは違う道を辿り、大型作品へと関心を寄せていくこととなる。晩花は国展では専ら「展覧会芸術」にふさわしい大型作品に取り組んだ。作品の大型化は「鶴泉・晩花作品展」に出品された六曲一隻屏風の《戦へる人》〔図4〕や、〔図― 430 ―― 430 ―
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