1〕の写真に写り込んだおそらく高さ2メートルほどの晩花の《赤き扇を持てる女》と推測される作品を見る限り(注25)、大正5年(1916)の時点で既に始まっていたと考えられる。ただし、第一回国展へ出品した六曲一隻屏風《初夏の流》〔図6〕は幅が5メートルにおよぶ、管見の限り晩花の画業において最大サイズの作品で、《戦へる人》と比べるとほぼ倍に近い上、淡彩の筆線を即興的に走らせた《戦へる人》とは違って、画面全体を密に濃彩で塗り格段に手が込んでいる。晩花が大型作品に慣れないことを慮って、紫峰がその発表前に語った「晩花の此の秋の製作は尤もアイロニイですよ」という言葉からも、晩花が制作態度を一転させたのがわかる(注26)。晩花は国展創立後に「大作はいくら大きくともよい、アル程度まで充實してゐればよい譯である。」と語り、「ミケランゼロの偉大な精力」「クルベーなどの霊的なところ」「ドラクラの精力の旺盛」に惹かれ、西洋美術のもつ迫力に圧倒されている。一方で、日本の作品に関しては「法隆寺の壁畫ばかりは大きく出來上つたところは見えるが、もつと驚くものがあつてよい譯です、元来日本の繪は云はゞ小ぢんまりした室に掛けて樂む、茶人室には格好のものである、コンナもので満足してゐるらしい、私は決して満足出來ない、浮世繪にしても立派のものがない、いゝところもあるが敬服する氣には成らぬ昔の佛畫に見る如き即ち精力や其の他は今人に於ても出來ない譯はないと思ふ」と述べ(注27)、日本の古い壁画や仏画は容認するものの、小さな空間に掛けられる茶掛けや、主に掌中で楽しむ浮世絵などを否定し、かつてとは対照的に、広い空間で巨大な作品を発表することに熱意を燃やしている。また、国展創立前は淪落の女性や貧しい人々といった頽廃性の強い主題も多く見られたが、その後は比較的普遍的な主題が選ばれている。ただし、晩花は第1回国展出品の西村更華《犯罪者》を思い浮かべて言ったものか「亦犯罪者でもよい、(略)その間に何等かの美點を見出したらば、それを材料として畫にするに何の差支えるところがあるでせう」(注28)とも語っていることから、奇抜な主題でも芸術表現として不適切とはしていない。《初夏の流》は、石井柏亭の指摘に「畫材から観ても取扱ひから見ても、東洋畫の傳統は格段に表はれて居ない」(注29)とあるように、綿布に顔料を厚く塗った濃彩画で、線的あるいは面的な表現も見られず、油彩画に近い手法が用いられる。一部の樹木の表現には千代紙細工のような荒い点描の表現も認められる上、人物の表現は、国展前の晩花の作品を知る藤井達吉に言わせると「きるく[筆者注・コルク]に焼繪して泥繪具を塗つて居た時の感じ」(注30)だという。国展創立前に晩花が日本画の枠外で研究を重ねてきた表現手法も受け継がれており、彼は引き続き日本画への挑戦― 431 ―― 431 ―
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