鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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注⑴『えびな書店古書目録 書架』117、平成28年12月。晩花、紫峰、華岳のほか11名による。⑵『新京都』の出版元「新京都社」は印刷所「伊藤聚英館」を営む伊藤天山(豊之助)の主宰によるもので、様々な印刷物に加え、雑誌類の出版も手がけ、京都画壇の画家を中心とした絵画や工芸の展覧会も開催している。『新京都』の販売元は主に京都であったが、東京美術学校の蔵印が捺されたものも確認できる。を続けている。彼が培ってきた反骨精神は国展創立後も衰えず、その規模を拡大して、普遍性を持ってより多くの人々へ訴えかける方向へ転じたといえよう。おわりに晩花は国展創立の約4ヶ月前に次のように語っている。金魚のうちで一匹大變なはねかへり者が居たのですが、とう〳〵鉢から外へ飛び出して死んで終ひました、はねかへり者の失敗は人間にでもありそうですね あまり調子に乗るとよく失敗します、やはりおとなしく仲よくして居ると生きてゆくにしろ安全ですね、然し鉢を飛び出して外に池でもあつたとしたら、鉢の中におとなしく居るものは馬鹿ですね 併し小さい鉢の中で同じ事を繰り返して居るまに死んで了ふんだから却つて先に死んだ奴の方が男らしいかも知れぬ(野長瀬晩花「ある女の死」『新京都』7-10、大正6年10月)彼が自らの殻を破る決心を固めたのは、小さい枠組みの中で同じ事を繰り返していても発展は臨めないと考えたからではないだろうか。その後、晩花は初めの3回の展覧会では大型作品を相次いで発表して気焔を吐いた。しかし、渡欧後は徐々にスランプと資金難に陥り、作品の規模も縮小していき、国展解散後は挿絵や装丁を手がけるなど、再び小品の世界に戻っている。晩花の画業全体を見ると国展の時代が異例であり、周辺状況や時代の要請により自ずと転換を迫られたのだろう。それについては改めて別稿で明らかにしたい。⑶野地耕一郎「秦テルヲ関係作家略歴 竹久夢二」『デカダンから光明へ 異端画家秦テルヲの軌跡』展図録 京都国立近代美術館ほか、平成15年。⑷前掲注⑴。⑸「野長瀬晩花氏焦繪畫會(広告)」『鳳梨』2、大正4年3月。美術史家北川久氏の教示による。⑹(徳美)大容堂「學校出の青年畫家」『新京都』5-9、大正4年9月。⑺「特集 大正の「小美術品店」」『大正イマジュリィ』6、平成22年3月に詳しい。― 432 ―― 432 ―

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