鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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オ・ダダやポップ・アートの作家たちによって巨大なリトグラフが制作されるようになる最初期の例ともなっている(注18)。その後、デ・クーニングは版画から離れていたが、1970年の日本への旅行を契機に、翌年にかけて一連のリトグラフを制作した。その初期の作品《クリシャー夫妻との週末》〔図8〕では余白が多く残され、筆致がより抑制された静かなものとなっており、書や水墨画の反映を見ることができる。一方でその後に制作された《ミニー・マウス》〔図9〕では、画面全体が筆触で埋め尽くされ、目やハイヒールの靴などのモチーフが描きこまれている。ここでは、アメリカにおける大衆文化の広がりを示唆しつつ、大画面の鮮やかな色彩と大胆な筆触を特徴とする代表的絵画シリーズである《女I》〔図10〕に、モノクロームの小さいサイズの版画で言及している。これ以降、デ・クーニングは版画に積極的に関わることはなかったが、これらの作品では、より若い作家たちの間で関心を集めていたポップアートや東洋美術を自分の制作活動に取り入れ、表現上の制約の多い版画に応用することで、過去に取り組んできた主題や絵画様式の刷新を図っているのである。ここでバーネット・ニューマンに目を向けると、1940年代中頃にはシュルレアリスムを連想させる有機的な形体を特徴とする絵画を描いており、1948年の《ワンメントI》〔図11〕で初めて画面を垂直に横断するジップを用いると、その後はジップによる画面構成を探究していく。彼はアトリエ17には参加しておらず、1961年、絵画制作を中断していた際に友人からの勧めでリトグラフの制作に初めて着手した(注19)。この版画制作の試みは、新たな絵画制作への出発点となり、同年、ニューマンは油彩画の大作を完成させている。ニューマンはリトグラフの制作を続けるが、1963年から翌年にかけて制作した版画集『18の詩篇』の序文において、イメージの周囲に残る白い紙のマージンを扱う困難さとスケールの問題に直面したと述べている(注20)。絵画では、ジップが画面を上下に貫き、垂直方向に区分された色面が並列する。しかし、これを版画に応用すると、ジップはイメージを貫くが、その外側をマージンが囲っているため、紙の端までジップが達することはない〔図12〕。また、イメージはジップと色面の関係に基づくスケールをもつが、それはイメージとマージンとの関係によっても変化する。この複雑な構造を版画の特性として受け入れたニューマンは、版画集のそれぞれの作品でマージンの幅、刷り方や紙の種類を変え、さらに18点の作品が全体として統一性をもつよう構成したのである。彼の画業の転機となったリトグラフ制作におけるマージンの扱い方は、その後の大― 440 ―― 440 ―

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