トビーは、それは「時が来て花がパッと地を覆って咲くようにして自分の芸術に現れた」(注2)ものだと言っているが、ホワイト・ライティングとして開花することになった彼の企ては、1919年にまで遡る。トビーによれば彼はその年、「ルネサンス的な空間や秩序の感覚への抵抗」を始めた。彼は、「空間はもっと自由なものであるべき」だと痛切に感じるようになった。そして彼は続けて言う。「私は形フォームというものを打ち壊したい、それをもっと動的で力強いやり方で溶解してしまいたいと心底思いました」(注3)。「形を打ち壊す」というトビーの重要な問題意識はすぐには優れた成果を生まなかったが、その後中国や日本の書に触れ、その美学を吸収した先に彼が1935年に採った戦略が、「描ペインティングく」という従来の手法によって絵を作り上げることではなく、「絵を書ライティングく」(注4)こと、すなわちホワイト・ライティングであった。トビーは1958年に発表した「日本の伝統とアメリカ美術」という論文の中で、東洋と西洋の芸術を大雑把に比較して、次のように論じている。「芸術家たちは、東洋においてはより線ラインと、西洋においてはより量マッス塊感と関わってきたと言えるのではないか。確かに東洋の芸術家たちは、ルネサンス的な概念とは掛け離れている」(注5)。一般に、西洋のペインティングが生み出す「形」は因習的に明暗法、そしてそれによる量塊感と深く結び付いてきたが、トビーはその問題から解放された「ライティング」の白い線を彼の絵の画面上で繰り広げることによって、新しい西洋絵画の表現を探究していったのだった。トビーのホワイト・ライティングは1940年代前半に成熟を迎える。彼が自分のホワイト・ライティングの頂点とみなす1944年の《ニューヨーク》〔図2〕を見てみよう。この絵では、縦長のグレーの下地の上に、無数の白い線が画面いっぱいに「書き」込まれている。その中には黒い線も引かれており、重なり広がる白の線が生み出す輝きは、それらの黒い線の存在によって効果的に引き立てられている。題名に従ってこの絵をマンハッタンの街の一情景と見なすならば、林立するビル一つ一つの量塊性は、浅い奥行の中でのライティング的運筆によって解体されており、全体としては、細かな虚の空間(隙間)を無数に生み出しつつオールオーヴァーに展開するライティングの線が、新しい種類の絵画的構築性をこの絵に与えている。そこでは、広がる白の輝きと、鋭く交錯する線のリズムによって、マンハッタンの街の活気が、トビー独特の詩情を伴って見事に表現されている。キュビスムという桎梏─キュビスムの「形」に抗して1940年代、ポロック、デ・クーニング、フランツ・クライン、ブラッドリー・ウォー― 448 ―― 448 ―
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