鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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ある。画面左上など、ポロックが部分的にポーリング(流し込み)の技法を試みているものとしてよく言及される作品であるが、画面右側の黒の柱状の形体に目を向けると、その上には白の絵具で「12416」といった数字や「+」「-」「=」といった記号が唐突に書き付けられている。それはまるで、黒板の上に白いチョークで数式が展開されているかのようだが、数学的な意味はなしておらず、オートマティックに書き連ねられたものだろう。ここで注目されるのは、この時ポロックは通常の絵画制作のように絵筆を使ってその白の絵具を「塗って」いるのではなく、絵具チューブの口を直接画面に当てつつ絵具を押し出すという方法を採っている点である。こうすれば、途中で絵具を絵筆に載せ直す必要がないため、無意識的な流れを中断することなく制作を進めることができた。そうしてポロックは絵具チューブをまるでペンのように扱って、彼の脳裏に次々と現れるそれらの数字や記号を、文字通り「書いて」いったのである。ポロックが同様の手法をさらに大胆に用いたのが、同年の《速記の人物》〔図5〕である。この絵画では、ポロックは白、黒、黄、橙色の絵具チューブを使って、「N」「6」「24」「E」「A」「P」「8」「S」「○」「×」といった文字、数字、記号、また識別困難な文字らしきもの─それは速記文字を思わせる─を画面全体に書き散らしている。《男性と女性》におけるポロックのライティングの使用は、部分的かつ表面的な効果の次元に留まるものであった。それに対し、この《速記の人物》でのポロックのライティングには、単に使用範囲の拡大ということではなく、絵画の構造的な観点から特筆すべき進展が見られる。文字や数字や記号もまた、究極的には何らかの形を持つものではある。しかしながら、我々はそれらを「形」として「見」ようとするよりは「情報」として「読」もうとする傾向を他方で持っており、その時には、それらは形ではありながら通常の形のような実体のないものとなっていると言うことができるだろう。グリーンバーグが言うように「キュビスム」とは「形」であったとすれば、ポロックはそこからの脱却を試みた時、こうしてライティングの効用に目を向けたのである。《速記の人物》におけるポロックのライティングについて、さらに見てみよう。彼がこの作品で書いた文字や数字や記号は、物理的には画面の最上層にあるが、視覚的にはその位置は流動的である。文字通り画表面上にあるように見える場合もあれば、絵画空間中を漂っているように見える場合もある。さらにそこでは、判読不能なライティングの一部が、下層に描かれている横たわる人物像の頭部や手足の輪郭との呼応を見せている。こうして、全体としてこの絵画では、《男性と女性》の時のようにペ― 450 ―― 450 ―

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