鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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ムの自由連想を利用した。その時彼が出発点として依拠した文字は、無意識から湧き上がってくる言葉をそのまま書き付ければよいだけ、あるいは、意識的に思考するにしても、言葉として考えればよいだけで、あらかじめ形態的な構想を必要としなかった。しかもそれは形態上、多様性に富んでいた。そうした文字というものを基に、この時期のデ・クーニングは彼の絵画世界を豊かに生み出していったのだった。東洋への眼差し─トムリン、クラインキュビスムのもたらす閉塞感の中で、抽象表現主義の画家たちはまた、シュルレアリスムのような西洋絵画内部の要素ではなく、西洋絵画自体とは性質を異にするものの力を借りて新しい西洋絵画の表現を切り開くこともさまざまに試みていた。その中でトムリンとクラインの二人はおそらく、トビーのように特に東洋の芸術に目を向け、そこからライティングないしライティング的なものを自らの絵画上で展開している。トムリンは1940年代前半、キュビスムの様式に依拠して制作を進める中、キュビスムの手法で彼の絵画の画面に文字を導入したことがあったが、1940年代後半、彼の絵画は新たな関心のもと、新たなやり方で、強い文字性を備え始めた。その最初の作例の一つである1947年の《有利な地点を得るための画策》〔図7〕を見てみよう。この作品では、絵筆の幅と同じ太さの白い線が、弧を描いたり折れ曲がりながら、画面上を力強いリズム感を持って走り回っている。その様はまるで書道のようであり、たとえばアーヴィング・サンドラーは、トビーの仕事を引き合いに出しつつ、次のように述べている。「トムリンの1947年から1949年にかけての抽象絵画については、マーク・トビーを例外として、彼は同時代の芸術家の誰よりも自分の絵画を一種のライティング─東洋の書に近い─として考えていたように見える」(注12)。実際のところ、トムリンがどのようにして東洋の書に触れ、関心を持つようになったかについてはほとんど明らかになっておらず、その点は今後のトムリン研究における重要な課題であろうが、デイヴィッド・J・クラークは、トムリンの高校時代の某教師が東洋芸術との関わりを持っており、その教師がトムリンによる東洋の書の様式の採用の一要因となった可能性に言及している(注13)。また、ジーン・シェノルトによると、フレデリック・マーティンソンという人物がトムリンの1949年頃の一枚の無題の素描〔図8〕と唐の僧・懐素(725-785年)の書体との強い類似性を指摘しており、シェノルト自身も、マーティンソンの指摘を根拠の一つとして、トムリンに対する東洋の書の影響を認めている(注14)。いずれにせよトムリンは彼の人生の中で、書物を通して― 452 ―― 452 ―

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