鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
463/507

はもちろんのこと、メトロポリタン美術館などで東洋の書の実作品を見る機会も充分にあったはずである。上記のサンドラーのコメントに戻ると、トムリンがトビーのホワイト・ライティング〔図1~2〕をニューヨークのウィラード画廊などで見ていた可能性は大いにある。しかしながら、トビーのホワイト・ライティングの繊細さとトムリンの絵画の力強い文字性は、性質的に相容れないものである。ここでトムリンの文字性と東洋の書との関係について考察を進めていく上でむしろ考慮に入れたいのは、アドルフ・ゴットリーブの〈ピクトグラフ〉〔図9〕である。トムリンがゴットリーブに初めて会ったのはおそらく1945年のことである(注15)。その時ゴットリーブは、1940年代を通じて彼の主要な仕事となる〈ピクトグラフ〉の連作に取り組んでいる真最中であり、片やトムリンは、自らのキュビスム的な仕事に限界を感じていたようだ。ゴットリーブが当時抱いた印象によれば、「トムリンは、彼が何年も描いてきているキュビスム型の静物画にうんざりしていた。彼は私のピクトグラフに新しい方向性を見、自分自身の仕事は時代遅れで陳腐なものだと感じさせられたのだった」(注16)。ゴットリーブの〈ピクトグラフ〉は日本語に訳せば「絵文字」であるが、ここでそれをトムリンの1940年代後半の絵画の文字性に直結させるのは早計であろう。ゴットリーブの絵文字はライティングというよりは、ペインティング内でのイメージ・メイキングの問題であり、そこで彼が用いている線は、あくまで伝統的な意味での絵画的形体の輪郭線である。たとえば1946年の《黒い謎》〔図9〕では、ゴットリーブは黒い背景を白の線でグリッド状に分割した後、それぞれの区画内に白い線で、絵文字を思わせる形象を描いている。絵文字自体の問題はさておき、そのような絵画構造は1940年代におけるキュビスムの影響の典型的な例と言えるが、ゴットリーブの〈ピクトグラフ〉の仕事においてトムリンが特に関心を持ったのは、絵文字そのものというよりはむしろ、背景の上に走る線の力強い存在性ではなかっただろうか。すなわち、その時トムリンは、何かの形の輪郭として引かれ存在するのではなく、それ自身で一つの形として存立しうる線ということについて、独自に考えるきっかけを得たように思われる。そして、そこに東洋の書─何か具体的な作品や書体でなくとも、「西洋絵画」との対比における「東洋の書」一般ということで差し当たり充分である─からの筆法的な霊感が重なり、トムリンの絵画に文字性が発現してくるのである。そうしてトムリンは、抽象表現主義者としての自らの絵画様式を確立していったのだった〔図10〕。― 453 ―― 453 ―

元のページ  ../index.html#463

このブックを見る