クラインは東洋(とりわけ日本)の書との関連が最も議論されてきた抽象表現主義者である。白地に黒の絵具を用いて豪快に筆を走らせた1950年に始まる彼の成熟期の一連の抽象絵画〔図11〕は、東洋の書の影響を我々にたやすく思い付かせる。しかしながら、クラインの白黒の抽象絵画と東洋の書との関係は複雑である。長谷川三郎によれば、クラインは1951年に長谷川に送った手紙の中で、自らが抱いている「書への熱烈な関心」を長谷川に語っている一方で(注17)、たとえばキャサリン・クーが1960年代初頭に行ったインタビューでは、クラインは次のように述べて東洋の書との関係性を強く否定している。「いいえ、私は自分の仕事を[東洋の]書のようだとは考えていません。[……]空間についての東洋の考え方は、それは無限のものだというもので、それは塗られた空間ではありません。しかし私たちの絵画の空間は塗られています。第一に、書はライティングですが、私はライティングをしているのではありません。時折私は、白いキャンバスを持ってきてその上に黒い記号を描いていると思われているのですが、それは正しくありません。私は黒に加えて白も塗っているのでして、白もまさに同じくらい重要なのです」(注18)。そして、このような状況についてバート・ウィンザー=タマキは、クラインが東洋の書の影響を頑なに否定するようになった過程に、アメリカの画家たちの絵画表現のアメリカ性を重視するアメリカ美術批評界のナショナリズムが作用していたことを鋭く考察している(注19)。具象から抽象への移行期に当たる1940年代後半のクラインの仕事(特に紙作品)を見ると、対象の輪郭取りのための黒の力強いストロークは彼の顕著な特徴である〔図12〕。そのストロークが具体的な対象からますます離れ、自律性を高めていくかたちで1950年の彼の白黒の抽象絵画が生まれてきたとすれば(注20)、その点では、東洋の書の影響を否定するクラインの主張には妥当性があると言えよう。ここでむしろ注目したいのは、その次の段階である。周知のようにクラインは翌1951年から数年の間、日本の前衛書家・森田子龍たちと、書簡や自作写真、森田が編集を務める『墨美』誌等の送受による深い交流を持った(クラインが「書への熱烈な関心」を長谷川に語ったのもこの時期である)。その中でたとえば1951年8月には、クラインは森田に宛てた手紙の中で、次のように書いている。「親愛なる森田様 『墨美』有難うございました。無事到着しました。[……]『墨美』に対し重ねて御礼申上げます。長谷川[三郎]様によろしくお伝え下さい。私は皆さんのグループの作品をもっと拝見致したく楽しみにして居ります」(注21)。それにもかかわらずクラインの仕事が森田らの書から何の影響も受けることはなかったというのは、非常に考えにくい。ここで、森田の現代書論は、クラインと日本の書の関係を考察する上で参考になる。― 454 ―― 454 ―
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