森田は『墨美』2号(1951年7月)誌上では書を「造型芸術」とし、そして、書を日本の枠を越えて再び「世界性」を備えたものとするために、人間の「真裸の姿の、最も深い所から発する造型」へと立ち返ることを強く訴えていた(注22)。そして森田は同誌12号(1952年5月)に寄せた「クラインの近作を観て」という評論文においては、書について、自分の外部にある既存の美しい形を真似ようとするのではなく、「本当に美しい形を自ら創り出すこと」、「安易に外側に頼らず、真に我々の中から、我々の人と一つになった本当に美しいものを生み出さなければならない」ことを論じている。森田は、そのような制作の精神を画家クラインは備えているとし、クラインのそれを自分たちの内にも持つことが不可欠の要件であると述べている(注23)。森田はクラインとの文通において同様のことを英語でクラインに語っていたか、あるいは少なくとも、『墨美』を毎号受け取っていたクラインは、森田の「クラインの近作を観て」の英語要旨(同誌12号掲載(注24))を読んだはずである。書の「形」をめぐるそのような森田の美学は、彼の書作品自体と併せて〔図13〕、1950年代前半に彼とクラインの交流が進んでいく中で、キュビスムの成形原理とは異なったものとしてクラインに霊感を与え返したのではないだろうか(注25)。クラインの白黒の抽象絵画は1950年代初頭、黒の輪郭線で囲い込んで形を作ろうとする傾向が顕著だったが〔図11〕、全体として次第に、力強いストロークの重なりの結果として一つのイメージ(あるいは絵画的構造)が立ち現れてくるような方向へと転じている〔図14〕。森田の書は、そういった展開をクラインにもたらしたか、あるいは少なくとも、自らそのような方向に向かいつつあったクラインの背を後押ししたように思われる。自己のバックグラウンドの発露─デ・クーニング、クラズナー抽象表現主義絵画の文字性については、シュルレアリスムであれ東洋の書であれ、そのような自己の外部的要素からではなく、画家本人の人生的バックグラウンドの中からライティングが発現してきたというケースもあった。デ・クーニングは1940年代後半になると、以前とは別の方向で新たに文字を用い出した。この時は、それらの文字は完成作の画面上で堂々とその存在を主張している。1946年から1949年にかけて、デ・クーニングは〈白黒の抽象〉と呼ばれる白と黒を基調とした一連の抽象絵画に取り組んでいる。このシリーズは、デ・クーニングの形成期から成熟期への移行期、ないしは成熟期の初期段階に位置付けることのできる重要な仕事である。その内の一点である1947年の《オレステス》〔図15〕を見てみよう(注― 455 ―― 455 ―
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