26)。この絵では、デ・クーニングは黒いエナメル塗料を用いて「O」「R」「A」「P」「T」といった文字を太く大きく描き出している。このような彼の行いについては、商業美術で用いられるレタリングとの関係性が、トマス・B・ヘスやハリー・F・ゴーグによって指摘されている(注27)。周知の通り、デ・クーニングは過去に商業美術に深く携わっていた。12歳の時にデザイン・装飾系の工房に弟子入りしたところから始まって、その工房での仕事を日中続けつつ、13歳で入学したロッテルダム美術工業アカデミーの夜間コースでは、純粋美術と応用美術の両方にわたった教育を受けた(最初の年には、レタリングの技術を学んでいる)(注28)。アメリカに来てからも、本格的に画家になる前、看板描きを含む職人仕事で生計を立てていた時期があった。デ・クーニングの親友だったエドウィン・デンビーによれば、レタリングの中でもデ・クーニングが特に意識していたのが、ニューヨークの街の壁を覆う、ヨーロッパのそれとは趣を異にする肉太の大きなアメリカン・レタリングだったという(注29)。そうして1940年代後半、画家として成熟を迎えつつある彼は、《オレステス》のような〈白黒の抽象〉の数点において、レタリングという商業美術の要素を大々的に取り入れることで、これまでの彼の仕事にはなかった絵画的強度を実現している。そして、さらなる注目点として、〈白黒の抽象〉では、デ・クーニングは美術用の絵具ではなく、文字通り看板製作用のエナメル塗料を多用していた(注30)。とりわけ《正午》(1947年頃)〔図16〕という作品では、デ・クーニングは画面下半分に黒で大きく「ART」と書き込んでいるが、そこでは彼はまるで、非芸術的なものと芸術的なものとの関係性や境界線について、我々に再考を強く促しているかのようだ。クラズナーは、ブルックリンの正統派ユダヤ教徒の家庭に生まれ育った。彼女は1940年代後半、〈リトル・イメージ〉(1946/47-49年)という一連のオールオーヴァーな抽象絵画を手掛けている。そのシリーズは三タイプに分類されるが、その中で彼女が〈ヒエログリフ〉と呼んだタイプの作品群については(注31)、ユダヤ人としての彼女の民族性と深く結びつくヘブライ文字の筆記法との関係が指摘されている。〈ヒエログリフ〉の典型作である1949年の《コンポジション》〔図17〕を見てみよう。高さ100センチ弱の縦長の画面上に、四角形や三角形や円形を基本とした抽象的な小さな形が細い白の線でいくつも描かれ、画面全体にびっしりとグリッド状に、オールオーヴァーに配されている。クラズナー自身が〈ヒエログリフ〉と呼んだように、それらの個々の形は象形文字のようなものを思わせるが、実際には何の文字でもない。― 456 ―― 456 ―
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