ただ少なくとも、それらを描く時の彼女の手付きは、人が何らかの文字を書く時のそれに極めて近いと言えるだろう。クラズナーは晩年、「私はずっとカリグラフィに関心を持って来ました」(注32)と述べているが、さらに興味深いのは、より具体的にヘブライ文字の筆記法と彼女の絵画制作方法の関係性が言及された次のエピソードである。1973-74年のホイットニー美術館でのクラズナーの個展に際して、同展キュレーターのマーシャ・タッカーが、クラズナー本人はそれまでまったく意識していなかったあることを彼女に指摘した。それは、クラズナーが個々の絵を描き始めるのは常に画面右上からで、そこから左へと筆を進めていき、左端まで来たらまた右端に戻って描いていっていること、そして、そのようなやり方は彼女が少女時代にヘブライ文字の書き方─右から左へと書いていく─の訓練を受けていたことと関係があるのではないかというものであった。この不意の指摘を受けてクラズナーは、「自分は長年にわたってそのようにして描いてきており[……]、自分も含めて誰にも読むことの不可能なある種のライティングにずっと夢中になってきた」と思い至るようになった(注33)。とすれば、彼女が1940年代後半に手掛けた〈ヒエログリフ〉は、その最たる例であろう。そうして生み出されたクラズナーの〈ヒエログリフ〉を見てみると、それは物理的には一枚のほどよいサイズの抽象的な「絵画(painting)」ではあるのだが、一般的なそれとはどこか違った趣が感じられる。当時はちょうど、抽象表現主義絵画における「壁画(mural)」への指向性が議論されたりもしていたが、そういうものとも違う。クラズナーの〈ヒエログリフ〉にはむしろ、書物の一頁ないし一枚の粘土板(あるいは石板)状の「文書(document)」のような気味がある。当時グリッドはキュビスムの絵画構造の典型的な骨組みとなっており〔図3〕、多くの抽象表現主義者たちがそこに囚われていた〔図9〕。クラズナーの〈ヒエログリフ〉もまた、グリッド構造を有している。しかしながら彼女はそれを、ライティングと密接に関わる彼女独特の運筆と画面構成法によって、キュビスムのそれとは違ったものに変質させており、そうして上述のような新しい絵画の在り方を提示することに成功している。結語本論では、1940年代に抽象表現主義がキュビスムを超克しようとする過程において「ライティング」という問題が関わっていたことを明らかにすることを試みた。本論で取り上げてきた抽象表現主義者たちは形成期から成熟期にかけて、ライティングの力を借りて、絵画の因習的な在り方を絵画芸術の内側から克服し、その新たな次元へ― 457 ―― 457 ―
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