た紙切れが紙切れであると同時に「無意識の彫刻」も表しているように、ここでの類似は単純ではない。シュルレアリストたちが行っているのは、実際に写っている被写体をそれと同時に他のものにも似せる類似の過剰なのである。クラウスは超現実が生まれる以上の過程を「世界の自動書記」と呼び、シュルレアリスム芸術の特徴とした。前述したように、アポリネールは写真に言及しながら、自然に戻りつつも単なる対象の再現ではない、いわば高次の自然を目指した。その一方で、写真を単なる対象の再現としてではなく記号の生成、あるいは理性の抜け道として歓迎したブルトンは、『魔術的芸術』で写真の誕生により「絵画は死んだ」と述べたアングルの言葉を確信犯的に引用している。そして、写真という新しいメディアを意識しながらブルトンは、アングルのようにデッサンに用いるのではなく、アポリネールが目指した高次の自然とも異なる、現実からシュルレアリテを生成させるという方法を写真に見出したのである。以上のことから、ブルトンのシュルレアリスム側で発表された《アングルのヴァイオリン》は、シュルレアリスム宣言でアポリネールの「シュルレアリスム」という語を再定義したのと同様の方法で、アングルを自分たちの芸術理論に取り込むことを意味していたといえるだろう。換言するなら、アポリネールの詩とともに掲載されたこの『リテラチュール』誌の最終号は、一足早い一種のシュルレアリスム宣言なのである。結論マン・レイの《アングルのヴァイオリン》を、「アングル」をキーワードに読み解くことで、当時の古典主義に回帰する芸術動向と、さらに二つの敵対するシュルレアリスムの存在を明らかにし、ブルトンとゴルの戦いのもとこの作品を読み解いた。しかし、彼らの争いを共時的視点から捉えるだけでなく、通時的視点から捉えるならば、アポリネールにまで遡り、ゴルは再びオルフェに注目することで、ブルトンはオートマティスムを提案することで、それぞれがもう一度第一次世界大戦後の美術史をやり直そうとしたといえる。実際、ブルトンはアングルを前衛芸術家たちの批判として自らの理論に取り込んだだけでなく、オートマティスムの手法を示したが、その後アングルの《泉》を連想させるマン・レイの抽象的写真作品が『シュルレアリスム革命』誌に掲載された際には、シュルレアリスムと関係の深い夢を連想させる「眠り」というタイトルをつけら― 39 ―― 39 ―
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