だがここに一つの素朴な疑問がある。そもそも「天」は、すでに使徒たちの頭上に天蓋の形で展開されていたのであるから、さらにその上方、第4層の星の煌めく夜空はいかなる「天」であろうか?浄化された魂としての星を示すために、ここに導入されたものであろうか?確かなことは、星の彼方に広がるのは、ひたすら「闇」であることだ。そこがもし詩編の言うように神のみの住まう「天の天」であったならば、そこはもはや人間の感性/知性をもってしては何も見ることも知ることも出来ない世界である。短くはあったが、今回のCASVA滞在時間の大部分は、この星空の彼方に関する古代末期の神学者たちの議論を忠実に追うことに充てられた。まず大バシレイオスはカエサレアの出身であるが、首都コンスタンティノポリスで学び、ついでアテネの大学に留学した、当代きっての知識人であり、プラトン、アリストテレスを始め、プロチノスの思想にも精通していた。彼の晩年の説教集『創造の六日間Hexameron』は当時の正統的宇宙論を代表するものとして多大な影響を及ぼし、ミラーノの司教アンブロジウスを経由してアウグスティヌスにまで、古典の知識に裏付けされた強固な論で古代末期の思想形成に貢献した。しかしながら、「天」に関するバシレイオスの考察は、『創世記』第一章冒頭の天地創造の物語に根拠を定め、それまで古典古代世界の生んだ多様な「天」に関する議論にいたずらに巻き込まれないよう、慎重に論を進めている。とくに、複数の「天」の存在に関しては、その聖書の出発点となる『コリント人への第二の手紙』XII章における聖パウロの神秘体験、あるいは詩編115編(七十人訳聖書113編)に言われる「天の天」に触れながらも、論も目的は、あくまで神の創造にかかる現実の「天」がどのような性質をもったものかの探究にあった。拙論に関し重要なのは『創世記』の神の創造第二日目にあたる「蒼穹firmamentum/στερεωματα」(口語訳聖書では「おおぞら」をめぐる第三説教であるが、複数の「天」に関する議論は、むしろ無為なこととしてこれを遠ざけている。「蒼穹」に関するバシレイオスの論攷の内で、拙論にとって最重要なのは、『創世記』に語られる創造の二日目に関していわれているように、それが「二つの水を分かって」いるとした点であろう。論の細部に立ち入る余裕はないが、「蒼穹」の下には、我々の住む現実の水があり、空がある。しかしその彼方には、また異なった水がある。この点に関し、議論の余地のないほど、当時一般的となっていたキリスト教的宇宙論を視覚化しているのは北イタリアのアクイレイアで発見された大理石板に刻まれた故人の来世における洗礼場面を表した素描である。見逃してならないのは、この「蒼穹」― 489 ―― 489 ―
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