これまでの筆者の調査によれば、「美術」という新語が辞典に掲載されたのは、開智進徳会編纂の辞典(Vit-Nam T-Đin, 1931、ハノイ)が最初である(注8)。Beaux-artsの訳語としてのMĩ-thutは、他の辞書・辞典にも30年代から掲載されていくが、張ペトリュス・キー永記の1937年改訂版仏越辞典(サイゴン)にはBeaux-artsが「Ngh gii(巧藝)」と掲載されており、Mĩ-thutやM-thutという語は見当たらない(注9)。1930年代後半でさえ、「美術」という言葉が、現在のような共通の認識を完全には持ち得ていなかったことが窺える。開智進徳会編纂の辞典には、「美術(Mĩ-thut)」は、「美に属する藝術(Ngh-thut thuc v cái đp)」という定義と、「音楽は一美術だ(Âm-nhc là mt mĩ-thut)」という例文が掲載されている。この例文と定義から、当時の「美術」は、今日の意味における「美術」とは異なり、諸芸術を指す言葉だったが理解できる(注10)。1923年、クインは、美術の定義について、次のように定義している。美術には狭義だけではなく、広義の意味もある。狭義の意味で使う時、美術は国における巧みな藝術の傑作を含む。他方、広義の意味で使う時、美術は人々の人生を美しくすることを主眼とした制作をも指す(下線筆者、以下同様)(注11)。また、クインは、同文章中、次のように述べている。一国の精神が、思想・制度・理論に現れるのは当然であるが、その国の美藝(Mĩ-ngh )に、より明らかな形であらわれる。古今、およそ世界の文明国である限り、文芸だけでなく、美術(Mĩ-thut)を尊重しない国はない(注12)。「美藝(Mĩ-ngh)」(注13)という言葉は、当会編纂の辞典によれば、「美しい工芸品(ngh làm đ đp)」(注14)とあり、仏語ではles métiers dʼartに相当する。あえて日本語で言えば、「美術工芸」といったところだろうか。クインらは、絵画や彫刻といった作品を狭義の「美術」と捉え、「装飾美術(Cácngh trang-sc, les arts décoratifs)」や、「美藝」と呼ばれるものを広義の「美術」と捉えていたわけではない。それ自体で自立する純粋美術、イコール、「狭義の美術」ではなく、その国を代表しうるかという基準が、彼らの言う「狭義の美術」であったようだ(注15)。このことは、ベトナムにおける「美術」という概念が、国民国家の形成と密接に関連して創出されたことを裏付けていよう(注16)。ミ・ゲ― 46 ―― 46 ―
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