ンの論考には、テーヌのミリュー論に大きく感化されていた当時のインドシナ教育調査官アンリ・グルドン(Henri Gourdon)の影響を指摘することができる。その翌年、クインは、インドシナ教育調査官グルドンが1914年にパリで行った講演「安南美術について」を翻訳し、『南風雑誌』に掲載している(注22)。グルドンの長い講演録を、クイン自ら翻訳する労をとったのは、グルドンが、「国民芸術」や、「国華」としてのベトナム美術の在り方と創造法を提案しているからだろう(注23)。かくして、クインら開智進徳会は、「国華(quc-hoa)」(注24)を開かせるための「美術運動」なる啓蒙を行う。1921年、開智進徳会が、「詩人と芸術家が美を育むのを奨励するために何をすべきか?」という討論会を開くと、当討論は熱を帯び、「会場の扉を超え、ハノイ全体に飛び立ち、対立意見の波を提起し、[…]、会員たちは、サロンを開くことや、文学賞を創ること、詩のコンクールを設立することなどを話題にしていた」 (注25)という。3.開智進徳会「サロン」の開催以上のような経緯により、1923年11月25日から12月10日にかけ、ハノイの開智進徳会館にて、「サロン(đu-xo、闘巧)」が開催された〔図4〕。このサロンは、商業・経済と緊密な「物産展」(hi-ch, foire)や、「博覧」(bác-lãm, exposition)とは異なり、パリのプティ・パレで行われているサロン・ドートンヌのような「サロン」、つまり、「フランスの美術サロンを真似た」(注26)ものであり、「売買」のためではなく、「美術批評」のために開催された、ベトナム初の「美術」サロンであるという(注27)。クインによれば、ベトナムの国の「美術の進化が遅れた」のは、ベトナム人たちが、「美術を尊重することを知らず、優れた手仕事を無学の労働者に任せ」(注28)てきたゆえであるという。そこで、まずは、国内の知識人たちに「審美の智(trí thm-mĩ, goût)」(注29)、つまり鑑識眼をもたせ、「国粋(quc-túy)」(注30)を研究させるべきだと呼びかけた。知識人らの鑑識眼による美術批評が、職人たちの意識を改革させると考えたわけだ。つまり、単なる工芸ではなく、「美藝」を職人たちに作り上げさせるためには、まずは、知識人の啓蒙が必要であるということになる。報告書によれば、当サロンは、刺繍、服飾、そして、漆や象嵌などの室内調度や家具といった、美術工芸品(いわゆる「美藝」)が大多数を占めていた。当時のハノイに存在した唯一の芸術の学校、応用美術学校(旧・職業学校)(注31)の学生からの応募が多かった。また、当校日本人教師の石川浩洋も出展している。「盛況」だと伝えられたこのサロン、フランス人からは好評だったようだが、ベト― 48 ―― 48 ―
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