鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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ナム人にとっては、混乱を生じさせるものであり、靴などの日常品を展示しようとした応募者もいたという。「美術」的な「サロン」と、それ以外の展示会の線引きがハノイの人々たちにはできていなかったようだ。特筆すべきは、『トンキンの未来』紙のマルク・ドンダーロが、「多くの数の」水彩画に目を留め、「目を見張る進化を成し遂げている」と、賛辞を送っていることである(注32)。すでに、ハノイには水彩画ブームの兆しがあったが、会は、水彩画のさらなる普及を目指し、1923年の『南風雑誌』に、水彩画のための知識と手ほどきを連載した。実のところ、この水彩画の技術が、後に誕生する「ベトナム絹画」に繋がっていく。開智進徳会のサロンは、毎年の開催が予定されていたものの、二回目以降の開催は報告されていない。その理由のひとつとして、美術啓蒙の役目がインドシナ美術学校(1925年開校)に譲られたことが挙げられよう。そのインドシナ美術学校は、後の1938年、「インドシナ美術及び応用美術学校(École des Beaux-arts et des arts appliqués à l'Indochine)」と変名する。その際、学生らの不満が噴出した。応用美術が美術よりも「低級」であるという認識からであるという(注33)。このことは、1923年から1938年の間に、「美術」に対する認識が大きく変化したことを物語っている。学生にとって、もはや「狭義の美術」は、絵画・彫刻になっていたのだ。ちなみに、1936年発行のダオ・ズイ・アインの仏越辞典(フエ)(注34)には、art の項に、M-thut のほか、Thun-ngh-thut(純藝術、Lʼart pour lʼart)、Đim-kim-thut(大藝術、le grand art)、Thc-hành ngh thut(實行藝術、Lʼart appliqué)、Trang-sc m-thut(装飾藝術、Art décoratif)、To-hình m-thut (造形美術、Art plastique)といった言葉が並んでいるのを確認することができる。1930年半ば頃、「美術」は、ベトナム全土ではないものの、知識人たちの興味を惹き、整理され、現在の語彙に近づいたと考えられる。結びにかえて以上、本研究は、開智進徳会の活動を中心に、1910年代後半から1920年代中盤までのベトナムにおける「美術」を考察した。会およびクインの考える「美術」は、美術工芸品を含む概念であり、国民国家形成への志向と強く共振し合うものであった。また、会の「美術運動」は、作り手ではなく、知識人に向けられ、「国粋」の追求を主眼にしたものであった。― 49 ―― 49 ―

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