⑥ 新興写真における肖像写真の様式および言説に対して海外の作品が与えた影響について─ヘルマー・レルスキーの受容を中心に─研 究 者:新潟大学 人文学部 准教授 甲 斐 義 明はじめに1920年代後半から30年代前半にかけて、モダニズムの影響を受けた欧米の新傾向の写真作品が日本の写真雑誌で盛んに紹介された。現在の写真史でモダン・フォトグラフィーやニュー・ヴィジョンなどと呼ばれるそれらの写真、そしてその影響を受けて日本で制作された写真は、当時「新興写真」と呼ばれた。欧米のモダン・フォトグラフィーにおいては新たな様式の肖像写真が数多く生み出されたが、それらが日本の写真家の作品に具体的にどのような影響を与えてきたかについては、十分に解明されたとは言い難い(注1)。そこで本研究では、特にドイツの肖像写真家ヘルマー・レルスキー(1871-1956)の作品に注目し、新興写真の肖像表現において海外の作例がどのように受容されたのかを明らかにする。現在の日本写真史研究でその名が言及される機会は多くないが、1930年代から50年代にかけてレルスキーは日本の写真家のあいだで広く知られた存在であり、その作品が日本の写真家たちによる肖像写真の様式と、肖像写真をめぐる言説に大きな影響を与えたことを示したい(注2)。1.レルスキー作品の紹介1871年にストラスブールに生まれたヘルマー・レルスキー(本名イスラエル・シュムクレルスキー)は、移住先のアメリカ合衆国で俳優として活動した後、1910年に妻とともにミルウォーキーに写真スタジオを開いた(注3)。1915年にドイツに帰国後は、映画カメラマンとして活躍し、1920年代にはパウル・レニ、アーノルト・ファンク、フリッツ・ラングらと仕事をしている。1920年代末から、パレスチナへと移住する1932年までは写真作品も精力的に発表し、1929年の有名な『映画と写真』展に出品した後、1930年にはベルリンの芸術図書館(Kunstbibliothek)で肖像写真の連作を展示している。その連作はその翌年1月に図書館長のクルト・グラゼールの序文を付して、写真集『日常の顔(Köpfe des Alltags)』として出版された。『映画と写真』展の写真部門は、「独逸国際移動写真展」として1931年4月から7月にかけて東京と大阪に巡回し、その出品作にはレルスキーの写真9点も含まれていた(注4)。『日常の顔』が日本の写真雑誌で紹介され始めたのも同じ頃である。『フォトタイムス』1931年5月号に掲載された糟谷霧川の「人像写真の一新派」と題された記― 54 ―― 54 ―
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