鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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事では、「極端なる客観的実在を写し出して而も主観的効果を発揮せんとする」例としてレルスキーの作品を取り上げている(注5)。数ある写真雑誌の中で当時もっとも熱心に欧米の新しい写真表現を紹介していた『フォトタイムス』において、この記事はレルスキーが本格的に取り上げられた最初の機会となった。同記事には作品図版が1点複製されているほか、本文の大部分を占めている「伯林の写真記者スタルケ氏の記事」の翻訳は、レルスキーの独特な撮影法(窓からの光が差し込む位置にモデルを配置し、さらにいくつかの鏡を用いて反射光を顔面に当てる)について解説している(注6)。『フォトタイムス』1931年7月号には相内武千雄の「肖像写真の革新」が掲載されている(注7)。タイトルだけ見ると相内の文章のようだが、その実質的な内容はグラゼールによる『日常の顔』序文の翻訳と、写真集から複写された12点の図版〔図1〕である。序文は後半のいくつかの段落が省略されている以外は、概ね原文に忠実な訳となっている(注8)。ラースロー・モホイ=ナジやヴェルナー・グレーフといった当時のドイツにおけるモダン・フォトグラフィーの主要な唱導者たちに共有されていた写真観が、グラゼールの序文においても示されている(注9)。すなわち、第一に、写真表現は絵画の模倣を止め、写真に固有の映像を追求しなければならないという考え、第二に、写真は確かに機械を用いて生み出される画像ではあるが、構図やライティングの選択によって作者の主観を表現することができ、それゆえ芸術性を持ち得るという考えがその写真観を特徴づけている。レルスキーの肖像写真は両者の条件を満たしているとグラゼールは評価する。そのため彼の見方では、レルスキーの撮影行為においては「モデルは素材以上のものではない」ことになり、写真は「客観的報道〔objektivem Bericht〕よりも主観的発表〔subjektiver Aussage〕をより多く持つてゐる」ことになる(注10)。同一人物をクローズアップでとらえた肖像が、アングルやライティングなどの要素を変えて何枚も収められていることも(『日常の顔』は30名の被写体による全80点の写真で構成されている)、この写真集がレルスキーの「主観的」表現であることの証とみなされた。さらにグラゼールは、モデルに2時間近く座らせ、本人も意識し得ない「ニュートラルな特徴〔neutralen Charakter〕」を顔に浮かび上がらせようとする手法も、レルスキーにとってモデルが「素材」であることの証であると考える(注11)。『日常の顔』の目次では、被写体は名前ではなく「門番(Portier)」や「洗濯女(Waschfrau)」といった職業名で示されている。ワイマール共和国の様々な社会階層の肖像の一覧を制作しようとしたアウグスト・ザンダーの同時期のよく知られた試み― 55 ―― 55 ―

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