鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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とは異なり、『日常の顔』の被写体の大半は(本のキャプションが示す職業を信じるならば)下層労働者たちである。被写体たちの中には「嘗ては幸福に暮し、戦争とインフレーシヨンによつて貧窮し、下賤な職業に甘んじなければならなくなつた人もゐる」とグラゼールは指摘する(注12)。同書が当時の日本の紹介記事の多くで「民衆の顔」と呼ばれていたことからも窺えるように、被写体の選択がこの写真集の重要な特徴であることは、日本でも理解されていた。例えば写真評論家の伊奈信男は、1932年10月に発表された論文「肖像写真の問題」で、「個人の精神生活を表現すると共にまたその個人の属する階級の精神をも表現」した例として『日常の顔』を評価している(注13)。2.影響の波及1931年1月にドイツで出版された『日常の顔』は、遅くとも同年8月には東京の書店で入手可能であった(注14)。その後レルスキーの作品は、新しい様式の肖像写真の代表例として、日本の写真家たちに広く知られてゆくことになる。『アサヒカメラ』1933年1月号に掲載された文章で、板垣鷹穂は「映画のクローズ・アプを周到なる用意の下に模倣して成功した例は、先頃から流行してゐるレルスキーの肖像写真「平日の顔」であらうと思はれるが、この種の型も、既に常規的な表現法として、数限りない追従者達からマンネリズム化されつゝあるのである」と述べている(注15)。1934年5月の松崎敏夫の論文も、そのような「マンネリズム化」について指摘している。ヘルマー・レルスキーの「日常の顔」が一度世に発表されるや、次から次へとこの追随者が現はれ、顔の一部が拡大されて、象の皮膚を思はせ、或時は眼だけ、或は口だけがアツプされ、しかも毛孔はこく00明に、ニキビ、ソバカスは申すに及ばず、恰も「新興肖像写真」は「拡大された顔面の醜悪さの描写」の別名とすら思はれるものがあつた(注16)。1933年末までにはレルスキーだけでなく、マン・レイ、エンネ・ビアマン、エドワード・スタイケンら、現在その肖像表現で知られる写真家の作品がすでに日本の写真雑誌で紹介されていたが、肖像写真のジャンルにおいて「流行」と言えるほど広まったのはレルスキーのみと言ってよいだろう。松崎も「追随者」の例として挙げている、『フォトタイムス』1933年1月号に掲載された田村榮の《試み─同一人物の顔に就て─》〔図2〕は、レルスキーの様式が日本でどのように理解されていたかを示す― 56 ―― 56 ―

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