もっともふさわしいモデルは「Menschen, die niemand kennt, Menschen, die sich selbst nicht kennen(誰も知らない人々、自身自身を知らない人々)」であると述べている(注21)。ここで言う「自分自身を知らない人々」というのは、自分をどのように見せるべきかを熟知している俳優とは異なり、自分自身がどのように写真に写るかを知らない人々、自身の顔立ちを認識していない人々のことである。グラゼールによるこの言葉は、『日常の顔』の撮影方法、およびその結果生じるイメージの特徴に呼応している。確かにレルスキーのモデルたちは今まさに写真を撮影されていることを自覚しており、カメラに向かってポーズをとっている。しかし、そのポーズの時間が不自然なまでに引き伸ばされ、さらには顔がクローズアップでとらえられ、本人にもコントロールできない顔の解剖学的特徴や皮膚の質感が強調されることで、被写体が自身を見せたいように見せることができる可能性が限りなく小さくなる(注22)。つまり、本人も知らないモデルの姿を可視化するのがレルスキーの撮影方法なのである。その意味では「自分自身を知らない人々」が彼のモデルとしてふさわしいというよりは、ひとたび彼のモデルになれば、誰しもが「自分自身を知らない人々」になってしまう。そしてこの点においてこそ、レルスキーの肖像写真は、その撮影方法の明らかな違いにもかかわらず、カメラに気づいていない状態で撮影されたザロモンのキャンディッド・フォトと共通性を持つのである。なお、グラゼールの「Menschen, die sich selbst nicht kennen」という言葉を、相内は「自分等自身お互に知らない人々」と不正確に訳しており、このことはレルスキーの肖像の上記の特質が当時の日本で見過ごされる一因となったかもしれない。だが、グラゼールの序文自体にもその原因はある。というのも、すでに述べたとおり、彼も結局のところレルスキーの作品を写真家の「主観的」表現とみなしていたからである。被写体自身さえ自覚していない彼や彼女の姿を写真に写し出すことは、一方では写真家が被写体の姿をコントロールできる範囲の増大を含意し、他方では、そのように撮影された写真こそが被写体の真の姿であるという主張を含意する。グラゼールの序文はすでに、後者よりも前者の側面を重視していた。さらに日本ではレルスキーの作品が、キャンディッド・フォトの対照物とみなされることで、その主観的表現としての側面、すなわち、写真家の創意の産物としての側面が、よりいっそう強調されることになったのである。4.木村伊兵衛《文藝家肖像》しかしながら、キャンディッド・フォトの撮影方法をレルスキーの肖像写真の特質― 58 ―― 58 ―
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